話 2
―― 神田莉緒――
あの日の冷たい雨が、今も心に降り続いている。離婚届を手に家に戻ると、玄関のドアが半開きになっていた。嫌な予感が、背筋を這い上がった。私の胸に広がる不安は、まるでこれから起こるであろう悲劇の前触れのように重苦しかった。
リビングから、楽しげな声が聞こえてくる。晴二郎と…彩良の声だ。彼らの声は、まるで私の存在など最初からなかったかのように、軽やかに響いていた。
私はゆっくりとリビングのドアを開けた。視界に飛び込んできたのは、ソファに寄り添う晴二郎と彩良の姿だった。彩良は晴二郎の腕に頭を乗せ、晴二郎はその髪を優しく撫でていた。彼らの間には、私が入る隙間など、どこにもなかった。その光景は、鋭い刃物のように私の心を切り裂いた。
晴二郎が、私の存在に気づいた。彼の顔から、一瞬にして血の気が引いた。その目は、焦りと戸惑いを映していた。
「リ、莉緒…」
彼の声は、ひどく狼狽していた。
「どうして、ここに…」
「ここが、私の家だからよ」
私は冷ややかな声で答えた。私の家。しかし、私には、もはや居場所などなかった。
「彩良は、少し体調が悪くて…。君は、自分の部屋に戻ってくれるか?」
晴二郎は、私を避けさせようとした。私を邪魔者扱いする彼の態度が、私の心をさらに深く傷つけた。
「彼女は、あなたの幼馴染でしょ? でも、私はあなたの妻よ」
私は、唇を噛みしめて言った。
「彩良は、昔から僕が守ってきたんだ。僕には、彼女に対する責任がある」
彼の言葉は、まるで過去の思い出が今の私よりも重いとでも言うかのようだった。
「心配するな。落ち着いたら、彩良には出て行ってもらう」
晴二郎は、私を宥めるように言った。しかし、その言葉に、信頼の欠片も感じられなかった。私は、もう彼の言葉など信じられなかった。
私は、何も言わずに自分の部屋へと戻った。ドアを閉めても、リビングからの楽しげな声は、私の耳に届く。私の心は、孤独と絶望で満たされ、ベッドにうずくまり、ただ涙を流し続けた。枕は、あっという間に涙で濡れた。
深夜、ドアが静かに開く音がした。晴二郎が、私の部屋に入ってきたのだ。彼は、私の隣にそっと横たわり、私の髪を撫でた。彼の指先が触れるたびに、私の体は硬直した。
「莉緒、すまない…」
彼の声は、ひどく低く、かすれていた。
「僕たちは、これからまた、新しい子供を迎えられるさ」
彼の言葉が、私の凍りついた心臓をさらに深く突き刺した。彼は、私のお腹の子のことを何も知らない。彼は、私が中絶手術を拒否したことも、その後の私の苦悩も、何も知らないのだ。その皮肉な状況に、私の心はさらに深く沈んだ。
その時、隣の部屋から、彩良の甲高い悲鳴が聞こえた。「いやだ! 晴二郎!」という声が、夜中に響き渡る。晴二郎は、私の隣から飛び起き、一目散に彩良の部屋へと駆け込んでいった。彼の背中は、まるで私など最初から存在しなかったかのように、迷いなく遠ざかっていった。
一晩中、彩良の部屋からは晴二郎の優しい声が聞こえてきた。安堵させるような、語りかけるような、そして愛を囁くような声。私の部屋には、ただ静寂だけが残された。
翌朝、私は疲労困憊の体を引きずって、階下へと降りた。キッチンからは、香ばしい朝食の匂いが漂ってくる。食欲はなかったが、無理にでも何か口にしないと、この体はもたない。
リビングに入ると、晴二郎と彩良が仲睦まじく朝食を囲んでいた。彩良は晴二郎に甘えるように寄り添い、晴二郎は彼女に甲斐甲斐しく世話を焼いていた。その光景は、もはや私にとって、日常と化していた。
彩良は、私の姿を認めると、一瞬にして表情を変えた。怯えたような、か弱い笑顔を浮かべ、晴二郎の背中に隠れるようにして私を見つめた。
「晴二郎…私、このパンケーキが食べたいわ」
彩良は、晴二郎に甘えるような声で言った。晴二郎は、迷うことなく彼女の要望に応え、パンケーキを彼女の皿に乗せた。
晴二郎が席を外した途端、彩良の表情は一変した。か弱い笑顔は消え失せ、代わりに冷たく、嘲るような笑みが浮かんだ。その目は、私を深く見下していた。
「長本くんは、あなたの子供なんて、欲しくないって言ってたわ」
彩良は、私の心臓をえぐるような言葉を吐き出した。私の指先が、震える。
「何を、言っているの…?」
私の声は、ひどくかすれていた。
「本当に、知らないの? あなたの結婚式の時、彼の父親が倒れたでしょう? あれは、長本くんが私のために、彼の父の銀行口座から大金を盗んだことがバレたからよ」
彩良は、冷たい笑みを浮かべながら言った。
「あなた、知ってる?」
私の心臓が、激しく脈打った。そんなこと、私は何も知らなかった。
「長本グループは、私たち志賀家のおかげで、今の地位を築けたのよ。だから、長本くんは、私に対して逆らえないの」
彩良は、さらに言葉を続けた。その言葉は、私の頭の中で、一つの確信へと変わった。晴二郎が、彩良に逆らえない理由。それは、彼女の背後にある、強大な力なのだ。
彩良は、突然「きゃっ!」と悲鳴を上げ、わざとらしく床に倒れ込んだ。その体は、まるで私が突き飛ばしたかのように、力なく崩れ落ちた。
「彩良!」
晴二郎が、猛然と階段を駆け下りてきた。彼の目は、怒りに燃え上がっていた。彼は、迷うことなく私を突き飛ばし、彩良を抱き起こした。私の体は、床に叩きつけられた。激しい痛みが、全身を駆け巡る。
「莉緒、君はなんてことを! 彩良に、何をしたんだ!」
晴二郎は、彩良を抱きしめながら、冷たい目で私を睨みつけた。彼の目は、私を完全なる悪と断定していた。
「私は、何も…」
私の声は、震えていた。言い訳など、彼の耳には届かない。
「もういい。君は、少し頭を冷やした方がいい」
晴二郎は、それだけ言うと、彩良を抱え、私の前から姿を消した。彼の背中は、冷たく、そして容赦なかった。私は、床に横たわったまま、無意識のうちに腹部を撫でた。まだ、小さな命の鼓動が、そこにあった。だが、この鼓動が永遠に失われる日が、すぐそこまで迫っていることを、この時の私はまだ知らなかった。
話 3
―― 神田莉緒――
晴二郎は、あの夜以来、家に戻ってこなかった。彼の不在は、もはや私にとって日常となっていた。彼の残した空虚な空間だけが、私の心を蝕んでいた。彼の存在が薄れていくにつれて、私の心の中で、彼への愛もまた、薄れていった。
私は、指にはめていた結婚指輪を、ゆっくりと外した。それは、かつて私と晴二郎の絆を象徴する、輝かしい宝石だった。しかし、今となっては、何の価値もない、ただの金属の塊に過ぎなかった。
カラン、と音を立てて、指輪はゴミ箱の底に沈んだ。私の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。もう、終わりだ。
その日の午後、晴二郎からメッセージが届いた。
「莉緒、今日発表会がある。僕の成功を祝ってくれるだろう? それに、志賀財閥との共同プロジェクトの発表もあるんだ。会場で、あの時計を持ってきてほしい」
彼のメッセージは、私をまるで召使いのように扱っていた。私の感情など、彼にとってはどうでもいいことなのだ。
彼の寝室に入り、指定された時計を見つけた。それは、私が彼にプレゼントした、高価な腕時計だった。彼はかつて、「この時計は、僕が一番大切な人に贈るんだ」と私に言った。その言葉が、今、私の心に深く突き刺さる。彼は、私ではない、別の誰かに贈るつもりだったのだ。
私は、その時計をじっと見つめ、静かに笑った。その笑いは、悲しみと諦めが入り混じった、虚ろな笑いだった。
私は、無表情のまま、運転手に時計を渡した。
「これを、晴二郎に届けてほしいんです」
私の声は、感情を一切含まない、冷たい声だった。
「そして、この離婚届も」
私は、離婚届を彼に手渡した。私の決意は、揺るぎないものだった。
私は、運転手の運転する車に乗り込んだ。目的地は、晴二郎と彩良が、彼らの「成功」を祝うための豪華な会場だった。車窓から流れる景色は、私の心を通り過ぎていく。
会場に到着すると、中からは賑やかな音楽と、人々の楽しげな声が聞こえてきた。その明るい雰囲気が、私の心の中の暗闇を、さらに深く際立たせた。
私は、ゆっくりと会場のドアを開けた。一瞬にして、会場中の視線が私に集中した。数々の目が、私を好奇と嘲りの目で見ていた。
「あれ、神田莉緒じゃないか?」
「スキャンダルまみれの女が、よく顔を出せるな」
「長本社長も、こんな女と結婚して、本当に可哀想だ」
私の耳に、周囲のひそひそ話が聞こえてくる。しかし、私の心はもう、何も感じなかった。私は、彼らの言葉を無視し、ただまっすぐに晴二郎の元へと向かった。
晴二郎は、私の姿を認めると、眉間に深い皺を寄せた。彼の顔には、不快感が露わになっていた。
「莉緒、なぜ君がここにいるんだ?」
彼の声は、怒りに満ちていた。
「これを、届けに来たのよ」
私は、微笑みを浮かべながら、彼に時計を手渡した。その微笑みは、彼の目には、ひどく皮肉に映っただろう。
彩良は、晴二郎から時計を受け取ると、わざとらしく私の目の前で箱を開けた。その中から現れたのは、晴二郎が「一番大切な人に贈る」と言っていた時計だった。
「晴二郎、この時計、私に付けてくれる?」
彩良は、甘えるような声で晴二郎に言った。晴二郎は、一瞬躊躇したが、やがて無言で彩良の腕に時計をはめた。その光景は、私にとって、彼らの関係性の全てを象徴していた。
彩良は、晴二郎にキスをした。そして、勝ち誇ったような目で、私を挑発するように見つめた。私の心は、何も感じなかった。ただ、空虚な空間だけが、そこにあった。
その時、彩良が突然「きゃっ!」と声を上げ、わざとらしく足元をよろめかせた。
「彩良!」
晴二郎は、すぐに彼女を抱き留め、私を睨みつけた。
「莉緒、君は一体、何がしたいんだ!」
彼の声は、怒りに震えていた。
「これを、渡しに来ただけよ」
私は、静かに離婚届を彼に差し出した。その書類は、私たち二人の関係の終焉を告げる、冷たい宣告書だった。
彩良は、突然腹部を抱え、「痛い…」と呻き声を上げた。その声は、晴二郎の気を完全に私から逸らした。
晴二郎は、私から書類を受け取ると、中身を確認することもなく、乱暴にサインをした。彼の顔には、ただ彩良への心配と、私への苛立ちだけが浮かんでいた。
「彩良、大丈夫か? すぐに病院へ行こう」
晴二郎は、彩良を抱き上げると、私に背を向け、会場を後にした。彼の背中は、私にとって、もはや何の感情も呼び起こさない、ただの影だった。
私は、離婚届を拾い上げ、踵を返そうとした。その時、誰かに足を引っ掛けられ、バランスを崩して転倒した。ゴン、と鈍い音がして、私の頭部から、温かい液体が流れ出した。
晴二郎が、一瞬だけ私の方を振り返った。しかし、彩良に腕を掴まれ、彼は再び私に背を向けた。彼の目には、もう私など映っていなかった。
私は、床に倒れたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。周囲の人々は、私を冷めた目で見ていた。誰一人として、私に手を差し伸べる者はいなかった。私の婚約指輪が、指から滑り落ちていた。いつの間にか、指輪は緩くなっていたのだ。私たちの関係が、既に破綻していたことの象徴のように。
私は、血の滲む頭部を抑え、ゆっくりと立ち上がった。周囲の視線など、もう恐れるものは何もなかった。私は、足を引きずりながら、会場を後にした。
タクシーを止め、病院へと向かう。運転手は、私の血だらけの顔を見て、驚きの声を上げた。
「大丈夫ですか、お客様!」
「ええ、死にやしないわ」
私は、顔の血を拭いながら、乾いた笑みを浮かべた。私の心は、もう何も感じなかった。だが、この傷はまだ序章に過ぎない。本当の地獄は、このあと私を待ち受けていた。