話 2
雅は病室を出たがすぐには立ち去らなかった。
廊下の壁に寄りかかり静かにその時を待つ。やがて遠くから聞こえてくる革靴の足音。焦燥感を含んだ速いリズム。高橋蓮のものだと雅はすぐにわかった。
彼女は素早くハンドバッグから目薬を取り出し両目に数滴垂らす。瞬きの間にその瞳は潤み表情は悲痛に満ちたものへと完璧に切り替わった。
蓮が廊下の角を曲がったその瞬間。
雅はわざと病室のドアを再び押し開けまるで凛に責め立てられているかのように泣きじゃくる声で叫んだ。
「凛さんお願いだから怒らないで! 私ただ心配で……」
そう言いながら雅は計算された動きで後ずさる。
点滴スタンドを支えになんとか立ち上がっていた凛は雅の突然の豹変に困惑と怒りを覚えた。
「雅あなた……何を」
凛が何かを言う前に蓮が病室の入り口に駆け込んできた。
雅はそのタイミングを逃さない。
「きゃっ!」
短い悲鳴と共に雅は自らバランスを崩し床へと派手に倒れ込んだ。
その手はまるで運命に導かれたかのように先ほど凛が叩き割ったガラスの破片の上に置かれた。白い手のひらに鮮血が滲む。
「雅!」
蓮の目に信じられないものを見るような衝撃が走った。彼は一瞬のためらいもなく雅の元へ駆け寄りその体を抱きしめる。
そしてゆっくりと顔を上げた。
その瞳には凛に対する燃えるような嫌悪と深い失望が宿っていた。
「蓮さん違うの、彼女が自分で……」
蓮の視線に射抜かれ凛は震える声で弁解しようとした。だが体は衰弱しきっていてまともな声が出ない。
「蓮様凛さんを責めないであげてください、妊娠中で気持ちが不安定になっているだけなんです」
蓮の腕の中で雅はか細い声で凛を庇うふりをした。
「妊娠」という言葉に蓮の眉が屈辱に歪む。
彼は凛を睨みつけ吐き捨てるように言った。
「恥を知れ、なんて悪辣な女なんだ」
「私の話も聞いてくれないの?」
凛の心は冷たい深海へと沈んでいく。
「僕は自分の目で見たものしか信じない」
蓮は冷酷に言い放った。
「北野凛。君との婚約は今日この時をもって破棄する」
そして蓮は凛が見ている前で雅の額に優しく口づけをした。
「僕が本当に愛しているのは雅だ」
目の前で繰り広げられる光景に凛は吐き気を覚えた。腹部の痛みが再び激しくなる。
蓮は傷ついた雅を抱き上げると一度も振り返ることなく病室を去っていった。まるでそこに転がるゴミでも見るかのように凛を置き去りにして。
凛は衝動的に手背に刺さったままの点滴針を引き抜いた。
血が白い肌を伝って滴り落ちる。
よろめきながら病室を飛び出し廊下を走る。一階のロビーまで追いかけると周囲の人々が奇異の目で彼女を見た。
外はいつの間にか土砂降りの雨になっていた。
視界が叩きつける雨で白く霞む。
凛は雨の中に飛び出した。
蓮が雅を高級車の後部座席に宝物のようにそっと乗せているのが見えた。
「蓮さん!」
雨音に負けないよう最後の力を振り絞って叫ぶ。
涙なのか雨なのかもうわからなかった。
車の窓は無情にも閉められエンジンが唸りを上げる。
黒いセダンは水飛沫を上げて走り去り跳ね上げられた泥水が凛の薄い病衣を汚した。
凛は道路の真ん中で立ち尽くした。
体がふらりと揺れる。
周囲からけたたましいクラクションの音が鳴り響いた。
その時だった。
雨でスリップした大型トラックが耳をつんざくようなブレーキ音と共に凛に向かって突っ込んでくる。
振り返った凛の目に眩いヘッドライトの光が突き刺さった。
視界が真っ白になる。
凛は本能的に両手で自分のお腹を固く固く守った。
激しい衝撃音。
凛の体は糸の切れた凧のように宙を舞い水たまりに叩きつけられた。
アスファルトの上に雨水に混じって赤い色が急速に広がっていく。
意識が遠のく中凛は体の下から生暖かい液体が流れ出ていくのを感じた。
心の奥底で絶望の悲鳴が上がった。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。
凛は深い闇の中へと完全に意識を沈めた。
そして五年の時が動き出す。
話 3
あれから五年。
街に流れる曲も、人々が画面越しに追うドラマも、すっかり入れ替わっていた。それでも——あの豪雨の夜のことは、まだ昨日のように凛の骨の奥に残っている。
東京六本木。
けばけばしいネオンが夜の闇を切り裂く街。
北野凛は安物のサングラスをかけくたびれた私服に身を包み一台のロケバスから降り立った。
マネージャーの加藤リナが苛立った様子で彼女を急かす。
「ぐずぐずしないで! 有名な監督に会わせてあげるって言ってるでしょ」
リナに連れられ凛は重低音が腹に響く地下のクラブへと足を踏み入れた。
リナは慣れた様子で人混みをかき分け店の奥にある薄暗い廊下へと凛を導く。
廊下の突き当たりには錆びついた鉄の扉があった。
リナは「ここで待ってて」とだけ言い凛に入るよう促した。
凛が黴臭い部屋に一歩足を踏み入れたその瞬間。
背後から強い力で突き飛ばされた。
よろめきながら暗闇の中に倒れ込む。
直後ゴンッという重い音と共に鉄の扉が外から施錠された。
「リナさん! どういうこと!」
凛はすぐに立ち上がり冷たい鉄の扉を力強く叩いた。だが返事はない。
凛は自分を落ち着かせようと深く息を吸った。耳を扉に押し当てるとリナが誰かと電話で話している声が微かに聞こえてきた。
「はい雅様、おっしゃる通り倉庫に閉じ込めました、これで今夜のオーディションには出られません」
北野雅。
その名を聞いた瞬間凛のサングラスの奥の瞳に氷のように冷たい殺意が宿った。
この五年間心の奥底に押し殺してきた憎悪が静かに鎌首をもたげる。
やがて廊下の足音は遠ざかっていった。
助けは来ない。凛はサングラスを外し自力での脱出を決意した。
ポケットからスマートフォンを取り出すが地下の倉庫では電波が届かない。
「圏外」の非情な文字が浮かび上がるだけだった。
スマートフォンのライトを点け周囲を照らす。
そこは打ち捨てられた酒の木箱やガラクタが山積みにされた行き止まりの空間だった。
足元の空き瓶を蹴飛ばしながら凛は他の出口や通気口がないかを探す。その動きにはもはや五年前の無力な令嬢の面影はなかった。
不意にライトの光が隅に積まれた古い帆布を捉えた。
その下からごそごそと何か微かな物音がする。
凛は瞬時に身構え近くに転がっていた折れた木の棒を手に取った。
足音を忍ばせ帆布に近づく。
一気に帆布をめくり上げた。
だがそこにいたのはネズミではなかった。
埃まみれの高級そうなスーツを着た小さな男の子が体を丸めて震えていた。
男の子――リクは木の棒を構えた凛を見て怯えた子鹿のような瞳で体を強張らせる。必死に壁際へとにじり寄るが声は一切発しない。
凛は一瞬動きを止めすぐに手にしていた木の棒を放り投げた。
そして彼を驚かせないようにゆっくりとしゃがみ込む。
「坊やどうしてこんなところに?」
できる限り優しい声色で問いかけた。
リクは固く唇を結んだままただ首を横に振るだけだった。その瞳には大人に対する強い警戒心が浮かんでいる。
凛はリクの顔色が異常に赤いことに気がついた。
彼の額に触れようと手を伸ばすがリクはびくりと体を引いてそれを避ける。
凛は無理強いせず安全な距離を保ったままふと優しい日本の童謡を口ずさみ始めた。
聞き覚えのある穏やかなメロディーにリクの体の震えが奇跡のように少しだけ和らいだ。彼は恐る恐る顔を上げ凛のことを見つめる。
その隙に凛はゆっくりと近づきそっとリクの額に手を当てた。
指先に伝わってきた燃えるような熱さ。
凛は息を呑んだ。この子はひどい高熱を出している。
「大丈夫よ」
凛は自分の着ていた安物のジャケットを脱ぐとわずかに抵抗するリクを構わずその中に包み込み強く抱きしめた。
凛の腕の温かさとふわりと香る優しい匂いにリクは次第に体の力を抜いていった。そして小さな手で凛の服の裾をぎゅっと握りしめる。
凛はリクを抱き上げたまま立ち上がった。
その瞳には鋼のような決意が宿っていた。
この子をこんな場所で死なせるわけにはいかない。
スマートフォンのライトで再び倉庫の中をくまなく照らす。
やがて地上から三メートルほどの高さに埃を被った小さな通気窓があるのを見つけた。
腕の中で苦しそうに息をするリクを見下ろし凛は固く奥歯を噛み締めた。
極めて危険な賭けになる。
だがやるしかなかった。