話 2
三谷美月は頭の回転が速く聡明な女だ。だがどれほど利口な人間でも、心に情けが宿った瞬間、冷静さを保つのは難しい。
「貧しい家だからといって、犬すら離れはしない。我が子ならなおさらだ。私の子供はこの暮らしを嫌っていないのに、あなたは子供の身になって、私を見下しているの?」
彼女は昔から口が強く、譲歩することを知らなかった。
鷹司彰は彼女の性格をよく知っている。三谷美月は己の信念を曲げない、自分の決めたことは最後まで貫き通す女だ。
以前仕事の場でも、彼女は何度も自分に歯向かった。一つの事業評価をめぐり、解雇のリスクを顧みず、敢然と意見をぶつけてきたこともあった。
ただ一つ、夜の閨の中だけは、彼女が素直に身を委ね、弱さを見せてくれた。
だが今回は事情が違う。彼女がどれほど意地を張ろうとも、鷹司彰は一歩も引くつもりはなかった。
「三谷美月、貴女は私と対等に渡り合えると思っているのか?」
相手が力ずくで迫ってくる言葉に、美月はまるで見えない大きな手に首を絞められたような息苦しさを覚えた。言い返す言葉も、反撃する力も、完全に奪われてしまう。
美月は唇を引きつけ、淡い笑みを浮かべた。
「鷹司様、誤解なさっていますわ。」
「あの子は稲葉結優さんの子供です。退勤後に病院へ見舞いに行き、それから家に戻ったところなの。」
鷹司彰は眉根を寄せ、じっと彼女を見つめた。疑いの眼差し、そして詳細に観察する視線が美月を貫く。
目をやると、彼女はタイトなヒップスカートを着ており、引き締まった腰と艶やかな肢体は、妊娠していた様子も、出産直後の様子も微塵も感じさせなかった。
「そういえば、稲葉結優のこと、覚えていらっしゃる?以前よく話題に出していた友人なの……」
美月が言い訳を続けようとしたが、鷹司彰は耳を貸そうともしなかった。
ポケットからタバコを取り出して唇にくわえ、火をつけると窓際へ移り、ゆっくりと煙を吐き出した。
たった一時間の間に、突然父親になったかと思えば、それが誤解だと分かる。混乱した心を落ち着けるため、彼はただ煙を吸い続けた。
半年ぶりに顔を合わせた三谷美月は、どこか以前とは雰囲気が変わったように見える。言葉にできない違和感を抱きながら、彼は窓ガラスの映る姿を通して、彼女をじっと眺めた。
昔、夫婦だった頃の彼女は、多少気まぐれなところはあっても、自分の前では飼い猫のように従順で、おとなしく寄り添ってきた。
だが今の彼女は、野良猫のように気ままで、捉えどころがない。
まさかこんな突飛ないたずらを仕掛けてくるとは思いもしなかった。
美月は窓際に歩み寄り、窓を大きく開けた。真冬の身に染みる冷たい風が部屋に吹き込み、充満していたタバコの煙を散らしていく。
「誤解だったとはいえ、少し気になりますわ。もし本当に子供がいたとしたら、佐野さんと子供、どちらか一方しか選べない状況になった時、貴方はどちらを選びますの?」
彼女は自分の立場を心得ていた。自分は最初から、鷹司彰の選択肢にすら入っていない存在なのだ。
「そんな仮定の話は無意味だ。」
鷹司彰はタバコの火を揉み消した。部屋中を探したが灰皿が見当たらず、火の消えた吸い殻を手に持ったまま、その場を離れた。
彼は真夜中に元妻と昔話をするような、暇な人間ではない。
美月は内心で思った。あの SNS の投稿を見なければ、この男は一生、自分と顔を合わせることもなかっただろう。
一ヶ月ほど前、ホテルで偶然出会った時を除いては。その日、彼は酔いつぶれており、二人は再び関係を持ってしまった。
気まずさを恐れた美月は、彼が目を覚ます前に慌てて着替え、その場を逃げ出した。
この出来事を胸の奥に秘め、一生口にしないつもりだった。だが思いがけず、その一夜が身に宿り、芽を出してしまった。
彼女は本当に妊娠していた。現在六週目で、胎児は順調に発育している。
窓の外では大雪が降りしきり、綿菓子のような大きな雪片が舞い落ちていた。黒い服を身にまとった鷹司彰の姿は、白い雪景色の中で一際目立っている。
美月は窓を閉め、冷たいガラスに額をつけ、彼が吸い殻をゴミ箱に捨て、道端に停まったブガッティに乗り込み、車を走らせて遠ざかっていく姿を見送った。
高級スポーツカーが、この下町の貧しい地域に存在するのはあまりに不釣り合いだ。
まるで鷹司彰自身も、本来三谷美月の人生に現れるべき存在ではなかったかのように。
美月は心に決めた。逃げよう。鷹司彰から、できる限り遠くへ。
話 3
三谷美月は孤児院で育った子供の中で、最も将来有望な存在だった。優れた学業成績が認められ、国内屈指の名門大学に授業料全額免除で合格したのだ。
彼女が鷹司彰と出会ったのも、その大学時代のこと。周囲には名家の御曹司たちが数多くいたが、その中でも鷹司彰はひときわ群を抜き、自然と美月の目に留まった。
結婚したこの二年間、夜ごとの寄り添い合う日々さえ、一生分の思い出として胸に刻むだけで十分だと、美月はずっと思っていた。
だけど予期せぬことに、今やお腹に命が宿ってしまった。
この子を中絶する選択は、彼女にはできなかった。この世で自分と血を分け合う唯一の存在なのだから。鷹司彰に親権を奪われる不安は拭えないが、一方で淡い望みも抱いていた。もし彼が佐野佳世の機嫌を損ねたくないのなら、この子の存在を認めようともしないのではないか —— と。
しかし昨夜の出来事が、その甘い考えを打ち砕いた。
美月は深くため息をつき、まだ平らな下腹に視線を落とした。鷹司彰はあの一夜のことを覚えていないようだが、万全の準備を整えなければならない。彼の目の届かない場所でこっそり子供を産めば、きっと発見されることはない。
たとえ後にバレたとしても、今回の誤解という前例がある。本当に子供が生まれたとしても、彼が再び乗り込んでくることはないだろう。
歳末が近づき、企業バイロンでは毎年恒例の年度総括会議が開かれた。美月は年度報告書を手に本社へ出向いたが、その手にもう一通、退職届を忍ばせていた。
逃げ出すのだ。この街を、鷹司彰の元を、少しでも遠くへ離れるために。
会議は午前九時十分に開始する予定だったが、九時半になっても鷹司彰の姿は見えなかった。
「さっき入ってきた時、佐野さんを見かけましたよ」別の支社長が部屋に入り、小声で囁いた。「鷹司社長の執務室にいらっしゃいました」
「なるほど、遅刻したのも無理はない。佐野さんと過ごしているのだろう」
鷹司彰は仕事を最優先に、時間に厳格な人物として知られていた。佐野佳世の存在だけが、その彼のルールを崩してしまう。
この瞬間、美月は「特別に愛される」という意味を、身をもって理解した。
彼女は立ち上がり、会議室の窓際へ歩み、カーテンの隙間から向かいにある社長執務室を眺めた。執務室のカーテンは半分閉じられており、濃いグレーを基調とした落ち着いた室内に、鮮やかな紫色の姿が浮かんでいるのがぼんやりと見えた。
かつて鷹司彰の秘書だった美月にとって、この執務室は見慣れた場所だ。
脳裏に光景が浮かび上がる。鷹司彰が椅子に座り、佐野佳世が机の縁に寄りかかり、二人が見つめ合って穏やかに笑う姿。それ以上に親密な様子さえ、容易に想像できた。
彼女は鷹司彰のためにバイロンに入社した。ただ、彼のそばに寄り添う小さな存在でいたいと願っていただけなのに、気づけば思いがけず深い関係に巻き込まれてしまった。
もしかしたら、この絆が深かったのは自分だけで、鷹司彰にとって自分は、通りすがりの傍観者に過ぎないのかもしれない。
二年間の結婚生活で、特別な扱いを受けたことも、愛されていると実感したことも一度もなかった。必死になって彼のそばに寄ったことが、果たして正しかったのか、間違いだったのか。
かつて深く結ばれた日々を思うと、ささやかな幸せを感じる一方、激しい後悔も押し寄せる。嬉しさと切なさ、後悔と未練 —— 入り混じった複雑な感情が、胸いっぱいに広がっていく。
「皆さん、報告を始めてください。会議は全て録画されており、社長が後で再生して確認されます」
遠藤航が会議室の扉を開け、声をかけてきた。
美月は指先を軽く動かし、カーテンから手を離し、うつむいたまま自分の席へ戻って座った。
各支社の責任者たちが順番に報告を進める。鷹司彰が同席していないため、議事は滞りなく進み、当初三時間を見込んでいた会議も、二時間で終了した。
「それでは皆さん、先に懇親パーティーの会場へ移動してください。社長もすぐに向かわれます」
遠藤航が各支社の年度報告書を回収し始め、美月の席に差し掛かった。
美月は柔らかく笑みを浮かべた。
「遠藤補佐、これを鷹司社長に届けていただけますか」
退職届を封筒に入れて差し出す。本来は直接手渡そうと考えていたが、佐野佳世が執務室にいる今、中に入るわけにはいかなかった。
「直接社長に渡しても大丈夫ですよ」
遠藤航は鷹司彰の専任補佐であり、美月が秘書だった頃から仕事で連携してきた仲だ。二人の結婚関係を知る、社内で唯一の人物でもある。彼は執務室の方をちらりと眺め、続けた。「仕事上の書類ですから、ノックして入って問題ありません」
会議室の扉は開け放たれており、執務室の中の様子がはっきりと伺えた。
佐野佳世は鷹司彰の社長用椅子の縁に腰を下ろし、二人の距離は極端に近い。
いつもは輪郭のはっきりした冷めた表情を見せる鷹司彰の顔に、柔らかな面影が宿っていた。金縁の眼鏡の奥、普段は澄んで厳しい瞳には、今や優しい情念があふれている。
この半年間、二人がこのように過ごしてきたのだろう。遠藤航はもう見慣れた様子だった。
だが美月にとって、鷹司彰がこれほど柔らかい表情を見せるのは初めての光景だ。思わず呼吸が詰まり、身動きが取れなくなった。
美月は退職届を無理やり遠藤航の手に押しつけ、声を潜めながらも断固とした口調で、必ず鷹司彰へ届けるよう頼んだ。どのような結末になろうと、自分は二度とこのビルに足を踏み入れない、とはっきり告げた。
遠藤は掌に収まった封筒を眺め、次に遠方で顔色を険しく曇らせた鷹司彰の姿に目を移した。瞳に無力さと同情の色が過ぎり、最終的に何も言わず書類を受け取った。
美月はもう彰の方を一瞥もせず、背筋を凛と伸ばし、ちょうど開いたエレベーターへと歩み入った。足取りを乱すことなく穏やかに進み、地下駐車場へ向かうボタンを押した。
エレベーターの扉がゆっくりと閉まり、駆け寄ろうとした彰の視線を遮り、同時に佐野佳世の隠しきれない得意げな笑みも完全に隔てた。
箱が地下へと降下していくにつれ、ずっと緊張状態だった肩の力がすっかり抜け落ちた。美月はエレベーターの内壁に身をもたれ、長い間堪え続けてきた涙が一粒、ついに手の甲に零れ落ちた。
彼女はこの瞬間、東京を離れる決意を完全に固めた。