話 1
大学入試まであと数日。クラスメイトたちが緊張感の中で受験勉強に励む中、片山美央は保護者を呼び出されていた。
原因は、神崎凛太朗への恋心が綴られた彼女の日記をクラスメイトが見つけ、皆の前で読み上げたからだ。
凛太朗は彼女の保護者であり、日記の中ではおじさんと呼んでいた。
「また親戚のおばさんに家から追い出されて、大雨の中で縮こまりながら、天国のお父さんとお母さんのところへ行きたいって本気で思った。 そんな時、おじさんが現れた。パリッとした白いシャツを着て、手に持っていた大きな傘で 私を雨から守ってくれた。そして手を差し伸べ、一緒に帰ろうって言ってくれたんだ」
「神崎家に来たばかりの頃は怖くて夜も全然眠れなかったけど、おじさんがウサギのぬいぐるみをプレゼントしてくれて、それを抱いて寝るようにって、おとぎ話まで読んでくれた」
「私の誕生日に、おじさんはとても綺麗な白いグランドピアノを贈ってくれた。2人で並んで連弾して、ふと顔を上げると、優しく微笑むおじさんの目元が見えた」
「これはただの愛着だって自分に言い聞かせても、好きだという気持ちを抑えきれない。おじさん、美央はおじさんが好き」
朗読していた男子生徒はわざとらしい口調で、彼女が大事に隠していたささやかな願いを暴き出し、公開処刑にした。
羞恥心、怒り、そして果てしない居心地の悪さが、少女の自尊心を少しずつ切り刻んでいく。
「返して……」彼女は泣き出しそうな声で、飛び跳ねながら手を伸ばした。
男子生徒は体をひねって避け、甲高い声を作ってさらに大げさに叫んだ。「おじさん、美央はおじさんが好き」
周囲からどっと笑い声が上がり、誰かが手を叩いて大声でヤジを飛ばした。「親を呪い殺した疫病神!恥知らずの泥棒猫!」
「疫病神!泥棒猫!泥棒猫!疫病神!」
ノートは数人の男子の手を渡り歩き、罵詈雑言の矛先は彼女自身から亡くなった両親へとエスカレートしていった。
怒りが頭のてっぺんまで突き抜け、美央は目を真っ赤に血走らせると、椅子をひっつかみ、力いっぱい投げつけた!
***
白いシャツを着た、爽やかな風のような男が足を踏み入れると、職員室がパッと明るくなった。
美央を叱り飛ばしていた女性教師はコロッと態度を変え、猫撫で声で尋ねた。「どちら様でしょうか?」
「神崎凛太朗」彼は髪を振り乱した美央をちらりと見た。「この子の叔父です」
目の前の少女が、なぜ彼のためにノート一冊分もの日記を書いたのか、急に理解できた気がした。
美央は彼を見る勇気が出ず、ただ俯いて足先を見つめ、指先も心臓もぎゅっと締め付けられていた。
約30分後、美央は彼に連れられて車に乗り込んだ。
密閉された空間は、男の放ついい香りで満たされていた。以前なら安心感を与えてくれたその匂いも、今の美央にとっては恐怖と不安を煽るだけだった。
おじさんに、これを機に嫌われてしまうのではないかと怖かった。
しばらくして、彼女は勇気を振り絞り、こわばった彼の横顔を見つめた。「おじさん……」
凛太朗は手を挙げて彼女を遮り、タバコに火をつけた。
白い煙が彼の表情を曖昧にする。美央は唇を強く噛みしめ、胸が息苦しくなるほど痛んだ。
タバコを一本吸い終えてから、彼はようやく口を開いた。「大学入学共通テストは受けなくていい。海外の学校を申請して、留学させる」
その言葉は美央の頭上に落ちた雷のようだった。彼女は粉々に打ち砕かれそうになりながら叫んだ。「嫌だ、私はテストを受ける。東都大学の生物製薬学科を受験するの……」
「海外にもいい大学はある。数年学んでから帰国して国家公務員試験を受けなさい。楽な部署を見つけてやるから」
神崎家は代々政治家の家系であり、おじさんはその中でも同世代のトップランナーだった。若くしてすでに某省庁の機密秘書を務めている。
彼の冷淡な声を聞いて、彼女は唇を歪め、ボロボロと涙をこぼした。
十代の恋を知ったばかりの少女は、世界の残酷さをまだ知らない。彼女には、なぜ凛太朗を好きになってはいけないのか理解できなかった。血の繋がりだってないのに。
そして、ただ「好き」と言っただけで、なぜ大学受験を諦めるという罰を受けなければならないのかも分からなかった。
美央は幼い頃から安心感を知らない子供だった。7歳の時に母親が亡くなり、その3年後には警察官だった父親が、海に落ちた2人の大学生を助けようとして殉職した。数人の親戚が弔慰金を巡って血みどろの争いを繰り広げた。
親戚のおばさんが勝ち取ったが、目当ては金だけで子供はどうでもよかった。普段からろくに食事も服も与えられず、事あるごとに殴られ、雨の日に家から閉め出されることすらあった。
凛太朗は、その時助けられた学生の1人だった。彼が美央を引き取ったのだ。
ひどく虐待された子猫のように、神崎家に来たばかりの頃はビクビクしていた。凛太朗が彼女を人間らしく育て上げ、彼こそが彼女の世界で唯一の拠り所となった。
ーー今、おじさんまでもが自分を見捨てようとしている……。
「おじさん、ごめんなさい。もう二度とあんなこと思わないから、テストを受けさせて。東都大学は受けない。京大でも早大でもいいから」
顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる可哀想な姿を見て、凛太朗の心は揺らいだ。
彼女は自分が手塩にかけて育てた薔薇だ。枯れゆくのを黙って見ていられるはずがない。
だが、このままやり過ごすわけにもいかない。少し脅して、そんな許されない想いをきっぱりと断ち切らせなければ。
彼は彼女の身分証明書と受験票を取り上げ、試験の前日に返すつもりでいた。
それが彼女の大学受験に影響するのではないか? 彼が彼女に与えたスタートラインは、すでに多くの田舎のガリ勉エリートたちにとってのゴールなのだから。
彼は彼女を部屋に閉じ込め、わざと顔も合わせず、電話にも出なかった。
試験前日の夜になっても状況は変わらず、美央は気が狂いそうだった。
朝から晩まで必死に勉強した3年間。ペンを握り続けた指には分厚いタコができ、解いた問題集は数メートルの高さに達していた。
大学受験は彼女にとって、単に未来を決めるだけでなく、青春時代の大切な挑戦でもあった。このまま諦めるなんて、到底納得できなかった。
夜、神崎家の別荘は静まり返っていた。家族は全員、ディナーパーティーに出かけている。
美央はこっそり部屋を抜け出し、凛太朗の部屋に向かった。
あちこち探し回ったが、自分の身分証明書と受験票は見つからなかった。
絶望した彼女は、警察に通報しようかとも考えた。
だが、騒ぎが大きくなって神崎家に泥を塗ることになれば、凛太朗は二度と許してくれないだろうと恐れた。
どうすべきか悩んでいた時、親友の神崎心春から電話がかかってきた。
彼女は神崎家の分家の子で、同じく凛太朗を叔父と呼んでおり、美央が神崎家に来てからできた唯一の親友だった。
『美央、早く来て!おじさんが酔っ払ってるんだけど、服のポケットにあなたの受験票が入ってるのが見えたの』
***
美央はホテルに到着すると、まずは心春の元へ向かった。
2人の少女は隅っこでひそひそと話し込み、心春は彼女にフルーツワインを一杯差し出した。
「美央、頑張ってね。明日は試験会場で会おう。 あなたなら絶対に東都大学の生物製薬学科に受かるわ。将来はアルツハイマー病の治療薬を開発して、お母さんと同じ病気になった人たちを元気にしてあげて」
美央は力強く頷いた。彼女の母親は40歳になる前に稀な確率でこの病気を発症し、美央を迎えに来る途中で車道に飛び出した。車にはね飛ばされ、血まみれになって倒れる姿を、彼女は目の前で見ていたのだ。
彼女は母親の遺影の前にひざまずいて誓った。大人になったら絶対にこの病気を治せる薬を研究して、他の子供たちがこれ以上母親を失うことのないようにすると。
それは彼女にとって、決してただの夢ではなく、執念だった。
フルーツワインをあおるように飲み干すと、彼女は心春が用意してくれたルームキーを手に、3206号室の扉を開けた。
背後の廊下では、心春がスマホを取り出してメッセージを送信した。ホテルの薄暗い照明の下で、画面が光っては消えた。
この時の美央は知る由もなかった。この夜の出来事が彼女の悪夢となり、そして海外へ追放される始まりとなることを……
話 2
東都国際空港。
7年の時を経て、片山美央はついに帰国したが、そのことは誰にも伝えていなかった。
荷物でいっぱいのカートを押していると、背の高い外国人の男性同僚が、手に提げていたスーツケースをさらにその上に載せた。
彼は美央の肩をポンと叩いた。「sage、ご苦労さま」
美央は首を横に振った。海外で暮らしたこの数年間、神崎家からは一銭ももらえず、一番貧しかった頃は農場で野菜を収穫したり、工事現場で肉体労働をしたりしていたのだから、この程度の荷物を押すことなど造作もなかった。
外国人は彼女のそばを手ぶらで歩き、スマートフォンを構えてあちこち撮影している。
彼らのそばを通り過ぎる歩行者たちは皆首を横に振り、中には陰口を叩く者もいた。
「向こうの生活で頭までイカれたのか?あんなに外国人に媚びへつらって」
「最近の女は白人を見ると歩けなくなるらしいぜ、タダ働きでも喜んでやるんだと」
悪意に満ちた憶測のひそひそ話を聞きながら、迎えを待っていた神崎凛太朗は、ふと自分が海外へ追いやったあの少女のことを思い出した。7年が経ったが、彼女はどうしているだろうか。
今の女の子のように、外国人の使いっぱしりに成り下がってはいないだろうか?
だが考え直して、それはないと思い至った。この女がこんなことをしているのは金のためだろうが、自分は美央に毎月3万ドルの生活費を送っている。日本円に換算すれば1年で4000万円にもなり、7年間1日たりとも途切れさせたことはないのだ。
物価の高いM国であっても、彼女は大部分の人間より良い暮らしをしているはずだ。
彼女のために申請した大学も学業のプレッシャーなどなく、ただ卒業証書さえ手に入れればいい。
7年という時間は、彼女が成長し、聞き分けよくなるには十分だ。そろそろ迎え入れてもいい頃合いだろう。
そう考えると、彼は傍らにいる華薬グループ社長の藤原蒼真に声をかけた。「あなたの会社に、あの新進気鋭の薬学専門家・sageを迎え入れたいと言っていましたね? いつ出立するおつもりですか?」
3日前、日本の国宝級の科学者であり、ノーベル賞受賞者、日本学士院会員でもある三浦隆司が急病で亡くなり、彼と関わりのあった国家機関や製薬会社は軒並み影響を受けていた。
なかでも華薬グループへの影響は最も大きく、すでにいくつかの新薬研究プロジェクトがストップしている。
今、プロジェクトを継続させるためには、新たな薬学研究の人材が早急に必要だった。
そこで彼の一番弟子であるsageが、最有力候補となったのだ。
凛太朗の言葉を聞き、蒼真はゆっくりとスマートフォンのゲームから顔を上げた。
彼は左耳の蛇の形をしたイヤーカフに触れながら、気だるげに口を開いた。「神崎主任、sageならあんたが接待しているM国の弔問団の中にいるよ」
凛太朗は最初は驚いたが、すぐに納得した。蒼真はただのビジネスマンではない。強力な政財界のバックボーンを持っており、自分よりも事情に通じていることなどごく普通のことだからだ。
彼は思わず尋ねた。「そのsageという女性はいくつなんですか?日本人ですか?」
蒼真はスマートフォンをしまい、眉間にわずかな疑問を浮かべた。「日本人だということしか分かっていない。とても謎めいている」
「研究者の中にはそういう奴もいる。表に出たがらないんだ。だが、彼女のように基本データすらない奴は本当に珍しい」
そう話していると、「弔問団が来ました」と誰かが呼ぶ声が聞こえた。
蒼真と凛太朗が同時に視線を向けると、その一行の5、6人はすべて欧米人だった。
先頭を歩くホークが真っ先に蒼真を見つけ、大げさに両手を広げてハグを求めてきた。
蒼真は眉をひそめて身をかわし、彼と握手だけを交わした。
弔問団の接待は公式な場であるため、凛太朗はタイミングを見計らって歩み寄り、流暢な英語で自己紹介をした。
挨拶を終え、凛太朗が彼らをホテルへ送ろうとしたとき。
ホーク博士が後ろを振り返った。「待ってくれ、我々にはもう一人……おお、彼女が来た」
ーーまさか、sageか?
凛太朗と蒼真が同時にそちらを見ると――
やって来たのは、背の高い東洋人の女性だった。シンプルなジーンズにシャツという出で立ちで、山積みの荷物で顔の半分が隠れており、黒く澄んだ瞳と富士額だけが見えていた。
それはなんと、先ほど通行人に陰口を叩かれていた、あの荷物を押す女だった。
凛太朗が部下に手伝わせようとしたそのとき、蒼真が冷ややかに口を開いた。「ホーク、あんたたちの手は北米で綿花でも摘むために置いてきたのか?」
彼の英語の発音は標準的で文法も正確だったが、ホークたち外国人には全く通じなかった。
さまざまな色の瞳が交錯し、誰もが彼の言っている意味を図りかねていた。
だが「綿花を摘む」という言葉が、決して良い意味ではないことだけは伝わった。
日本側の人間たちは皆、必死で笑いをこらえていた!
さすがはアジア随一の製薬会社の社長、口を開けば毒を吐く。
荷物用カートの後ろから軽やかな笑い声が聞こえ、女性が荷物の陰から姿を現した。「皆様、ホーク博士たちのことを誤解なさらないでください。これは私がやるべきことですから」
自分から喜んで? やはり向こうの生活にすっかり染まっているらしい。
蒼真は一瞥しただけで視線を外したが、凛太朗は目を丸くしてその場に釘付けになっていた。
目の前の少女は濃い眉に長い睫毛を持ち、笑うと目が少し細くなり、口元には2つの浅いえくぼが浮かぶ。
(これは……俺の美央か?)
美央もまた、凛太朗の姿を捉えた。
歳月は彼の端正な顔立ちにいささかの痕跡も残しておらず、堅苦しい公務員風のジャケットでさえ、彼の温和で上品な雰囲気を隠しきれていなかった。
美央は胸の奥がツンと痛み、すべてが変わってしまったことを思い知らされた。
あの年、彼女は親友の神崎心春からもらったフルーツワインを飲み、3206号室のドアを開けたが、そこにいたのは凛太朗などではなく、彼女と同じように体の自由が利かなくなった見知らぬ男だった。
暗闇の中、互いの顔はぼやけて見えなかった。ただ、極上の筋肉の感触だけが手の下で熱く燃え上がり、狂気の果てまで行き着いた。
その後……彼女が目を覚ましたときに直面したのは、叔母の伊藤美音から浴びせられたビンタだけだった!
恩知らずの恥知らず、それが彼女に貼られたレッテルとなった!
7年経った今でも、美央には理解できなかった。自分こそが被害者なのに、なぜ美音の口ぶりでは、まるで自分が薬を盛って凛太朗を無理やり襲ったかのように言われているのか。
満18歳になったばかりの少女は、一夜にして友人、家族、そして純潔を失い、大学入試の権利を剥奪され、汚名を着せられたまま海外へ追いやられた。
さらに残酷な運命が待ち受けていた。彼女は海外に着くやいなや強盗に遭い、身ぐるみ剥がされた。電話を借りて叔父に助けを求めたが、何か企んでいると思われ、即座に着信拒否されたのだ。
異国の路上で身寄りのない女性がどんな目に遭うか、ニュースでも珍しくない。弱者は犯罪の格好の標的だ。もし2人の親切な留学生に出会っていなければ、彼女はとうの昔に路上で死体となっていただろう。
左の袖を強く引っ張って引き締めると、彼女は淡々と声を絞り出した。「叔父さん、お久しぶりです」
最初の衝撃が過ぎ去ると、凛太朗の脳は思考を始め、内心も複雑に揺れ動いた。
彼は喉仏を動かした。「美央、この7年、元気だったか?」
美央は伏し目がちになった。そんなこと、どう答えればいい?
ーー良くなかった、と? でも死んではいない。
だが、元気だったという言葉は、どうしても口に出せなかった。
7年間、路上をさまよった時も重病で生死の境をさまよった時も、彼女は一切の助けを得られず、自力で生き抜くしかなかった。
7年間、何の音沙汰もなく、1通の電話でさえ彼女にとっては手の届かない願いだった。
おそらく、恥知らずのふしだらな女と罵られたあの時、彼女は自ら離れるべきだったのだ。
追放され見捨てられ、肉親の気が変わるのを待つ雛鳥のように、繋がらない電話を卑屈なまでに何度も何度もかけ続け、希望から絶望へと突き落とされるのではなく……
彼女がずっと黙っているのを見て、凛太朗は思わず手を伸ばし、昔のように彼女の頭を撫でようとした。
美央は荷物を取るふりをして、それを避けた。
凛太朗の手は宙に浮いたまま止まり、やがてきつく握りしめられた――
元の彼女の性格なら、顔を合わせた途端に自分の胸に飛び込み、この数年間の恨みつらみを甘えるように泣きながら訴えてきたはずだ。
だが、彼女がこんなにもよそよそしいのは、自分のことを恨んでいるからだろう。
それもそうだ。あの日、彼は18歳の少女を海外へ放り出した。いくら衣食住に困らなくとも、寂しくて怖かったに違いない。
だからこそ、彼女は泥棒に遭ったとか病気になったとか、次々と嘘をついては帰国をせがんだのだ。
胸の奥に苦さと悲しみが広がった。7年も経つのに、彼女はまだ自分の親心に気づいていない。
その時、また別の人が荷物を取りに来たので、美央は彼に申し訳なさそうに微笑んだ。「叔父さん、私は仕事に戻ります」
荷物用カートが蒼真のそばを通り過ぎた。
彼女はこれまでに美しい男をたくさん見てきたし、凛太朗もその中では群を抜いていた。
目の前にいるこの男は、凛太朗の知的で上品な雰囲気とは異なり、顔全体の骨格がしっかりしていて、目鼻立ちが深く、鼻筋が通り、攻撃的なまでに美しかった。
だが……見覚えはない。
美央は彼に軽く頷くと、視線を戻して前へ歩き出した。
蒼真もまた視線を外し、二人はすれ違った。
突然、爽やかな甘いレモンの香りが鼻腔に押し寄せ、一瞬で彼の脳内を駆け巡った。
漫然としていた瞳が瞬時に収縮し、彼は常人よりも鋭い鼻を思わずヒクつかせた――
間違いない。レモンにラベンダーが混ざり、パチョリとアンバーグリスの薬のようなウッディなベースの香りだ。
彼は再び視線を上げ、美央を見た。この独特の香りは、7年前に自分と寝たあの女と同じだ。
「待て」
話 3
片山美央は驚いて彼を見つめた。美しい瞳には困惑が浮かんでいた。
「美央、怖がらなくていい」
神崎凛太朗は藤原蒼真を脇へ引き寄せた。「彼女は俺が引き取った片山美央だ。M国で金融を学んでいる。まさか彼女がsageだなんて思ってないだろうな?」
蒼真がそう思うはずはなかった。
だが、理由を説明する必要もない。あの年の出来事を知っているのは、彼自身とボディガードの吾郎、そして親友の橋本譲治だけなのだから。
彼は七年間探し続け、それはすでに執念となり、いささか病的なまでの狂気と化していた。
再び深く少女を一瞥する。ーー片山美央、か?
彼はその名を脳裏に焼き付けた。
一行はホテルに到着し、美央は車を降りるなり大物たちの世話に奔走した。
彼女の忙しなく動き回る姿を見て、凛太朗は酷く不愉快だった。
彼が手塩にかけて育てた小さな姫が、他人に仕えているなど。
ホークを部屋に送り届けた後、美央は額の汗を拭った。「博士、賭けに負けたので、皆さんの荷物を運びました。 次にゲームをしてあなたが負けた時も、ズルはなしですよ」
ホークは顔を覆った。「美しいsageお嬢様、前回私が負けた時は、女装して広場で踊らされたじゃないですか!」
美央はふと微笑んだ。何か言おうとした矢先、凛太朗が歩いてくるのが見え、ドアの前から退いた。「叔父さん、ホーク博士に御用ですか?」
「いや、お前だ。 美央、一緒に家に帰ろう」
家など、彼女にはない。
だが彼女は拒まず、ただ笑顔で頷いた。「はい」
たとえ彼らが学費や生活費を出してくれなかったとしても、彼女を十歳から十八歳まで育て、最高の教育と愛情を与えてくれた。あの数年間の恩は確かなものであり、恩を仇で返すようなことはできない。
ましてや、今回彼女が帰国したのはあの年の真相を突き止めるためだ。当然、神崎家に戻る必要がある。
車に乗り込み席に着くなり、凛太朗が尋ねた。「お前、今はホーク研究所で雑用をしているのか?」
美央は少し言葉に詰まった。明確な仕事の役職はないように思え、こくりと頷いた。
「辞めなさい」
美央は少し驚いた。「どうしてですか?」
「そんな仕事、どうせ月給1万ドルが関の山だろう。シャツ一枚買えるか?」
自分が着ているBブランドのシャツを見下ろし、美央は思わず笑ってしまった。
まさか、彼の金で買ったとでも思っているのだろうか?
叔父は、彼女のカードが盗まれて利用停止になった後、再発行されていないことを知らないのだろうか?
彼は、金もないのに彼女がこの数年間どうやって生き延びてきたのか、尋ねようともしない。
彼女が笑うのを見て、凛太朗も釣られて笑った。「国家公務員試験まであと四ヶ月だ。しっかり準備しなさい。以前話した通り、お前の将来は俺が道筋をつける」
美央は少し小首を傾げた。「叔父さん、公務員の給料も高くはありませんよ」
「子供には分からんさ。 その肩書きがあってこそ、良い縁談に恵まれるんだ。美央、お前はあのお嬢様たちとは根本的に違うんだからな」
強力な家族の背景がない以上、自ら上を目指すしかない。
凛太朗が彼女のために考えてくれていることは、美央にも分かっていた。
彼が彼女のために描いた道の出発点は、田舎のガリ勉エリートたちが持てるすべてを注ぎ込んでようやく辿り着く終着点かもしれない。
だが、彼女はそれを望んでいなかった。
彼女には自身の目標と信念がある。確固たる志があったからこそ、金も住む場所もない状況でも生き抜くことができたのだ。
胸の奥の鈍い痛みを押し殺し、彼女は問い返した。「叔父さん、もう怒ってないんですか?」
凛太朗は一瞬呆気にとられ、ようやく彼女の意図を理解した。
彼はとうの昔に怒りなど忘れていた。
最初の一、二年は腹を立てていたかもしれないが、七年が経ち、政界の荒波に揉まれてきた彼にとって、かつての小娘の悪戯など、もはや気にも留めていなかった。
彼は笑いながら彼女を見た。「怒ったのはお前が言うことを聞かなかったからだ。今はもう改心しただろう? どうだ、まだ叔父さんを恨んでいるのか?」
美央は首を振った。「滅相もありません」
恐れ多いだけで、恨みがないわけではない。
凛太朗はそれに気付かないふりをして、海外での様子を尋ねた。
「順調でしたよ。学校へ行って、授業が終わったら図書館へ行って」彼女の答えはとても素っ気なかった。
凛太朗の耳にはそれが当てつけに聞こえ、彼はそれ以上何も聞かず、車は沈黙のまま神崎家へと到着した。
玄関の前に立ち、美央は深い感慨にふけった。
七年前、彼女はまだ庭のブランコに座って未来を夢見ていた。庭のバラを切って花瓶に挿し、凛太朗の部屋に届けたりもしていた。
今、ブランコの鎖には新しく油が差され、バラは鮮やかに咲き誇り、すべてはあの頃と変わっていないように見えた。
「美央、美央が帰ってきたのかい?」 年老いた声が響いた。
美央が視線を向けると、赤紫色のシルクの着物を着た老婦人が出てきた。
「おばあちゃん」美央は慌てて彼女を支えた。
静子は彼女を抱きしめ、震える声で言った。「可愛い子や、よく帰ってきたね! お前を送り出した後、おばあちゃんは後悔したんだよ。身よりも友達もいない外国で、小さな女の子が暮らすなんて、本当に辛かっただろうに」
美央は微笑んで瞳の奥の寂しさを隠した。携帯電話は盗まれたが、彼女は彼ら全員の電話番号をずっとしっかりと覚えていた。 現地のSIMカードを契約した後、全員に番号を送った。少しでも気にかけてくれていれば、一度くらいは電話がかかってきたかもしれないのに。
凛太朗は笑って静子を慰めた。「手放さなければ成長しませんよ。こうしてちゃんと帰ってきたじゃありませんか」
静子は彼女の手を引いて全身をまじまじと見た。美央の服装はシンプルだが、どれも一流ブランドのものばかりで、首元のネックレスもTブランドの最新作であり、百数十万円は下らない品だった。
彼女は満足げに頷いた。「さあ、まずは中に入りなさい。お風呂に入って少し休むといい。 お手伝いさんには、お前の大好きな鍋を作らせたからね」
美央が家政婦に案内されて二階へ上がると、静子は息子に向かって感嘆の声を漏らした。「すっかり立派な大人の女性になったねえ」
凛太朗は何も答えなかった。彼の深い瞳の奥には、少女の白いシャツが小さな帆船のように映り、どんどん遠ざかっていくように感じられた。
静子は声を潜めた。「この数年間そばにいなかったとはいえ、あんたもあの子にずいぶんお金を使ったんだろう。あの服やアクセサリーを見ればわかる。うちの神崎家はね、あの子に不自由な思いなんかさせてないよ」
***
美央は手を伸ばし、以前住んでいた部屋のドアを開けた。そこはすっかり様変わりしていた。
以前彼女が幼かった頃、静子は部屋をピンク色に改装してくれた。ピンクの天蓋が付いたベッドに横たわれば、まるでバービー人形のお姫様になったような気分だった。
成長してそれが好きではなくなっても、居候の身であることは理解していたため、改装を要求することはせず、ただ天蓋とピンクのシーツをクリーム色に変えただけだった。
だが今、壁紙も家具もモダンで高級感のあるスタイルに変わっていた。淡いベージュの色調が心地よく、家具はすべてイタリア製のオーダーメイドだった。
最初は部屋を間違えたのかと思ったが、ドレッサーを見れば、間違いなく若い女性が使うものだった。
ーーまさか、叔父さんたちは彼女が帰ってくるのを待ちわびて、とうに部屋を改装してくれていたのだろうか?
すでに冷たく硬くなっていた心の奥底に、かすかな温もりが湧き上がった。あんな出来事が起こる前、神崎家は彼女にとても優しかった。
やはり彼らにはっきり伝えるべきかもしれない。自分は海外での七年間、支援を受けられなかったけれど、何とかやってきたこと。HF大学でのポスドク研究を終えてホーク博士の研究所に入り、今は国内でキャリアを積むために戻ってきたのだということを。
彼女がクローゼットの前まで歩き、まさに開けようとしたその時、不意に背後で大声がした。「早く出てきて、そこはあなたの部屋じゃありません!」
美央が振り返ると、先ほど彼女を二階へ案内した家政婦だった。
彼女は部屋の装飾を見回し、これは伊藤美音の趣味ではないと感じた。
しかし神崎家には、すでに四十代の美音以外に若い女性などいただろうか?
まさか……凛太朗の恋人だろうか?
彼女は思わず尋ねた。「じゃあ、今は誰の部屋なの?」
「私のよ」
美央が声のした方を見上げると、思わず目を細めた。なんと、彼女だったのだ!