話 1
「残高が不足しています。」
赤い警告ウィンドウが帝国ホテルの請求書のPDFを遮った。九条静はタブレットを持つ指先に無意識に力を込める。眉間に寄せられた皺が彼女の内心の苛立ちを映し出していた。
すぐさま三井住友銀行のアプリに切り替える。ローディングの数秒が永遠のように感じられ、指先が冷えていく。画面に表示された一件の振込履歴。
五千万円。
その数字の大きさに一瞬呼吸が浅くなる。視線が吸い寄せられたのは、振込先の名前だった。
「ミカミ モア」
静の記憶がその名前を検索する。塚原健斗が、故郷の後輩だと、人懐っこくてか弱い子なのだと、そう言って笑っていた顔が浮かんだ。途端に胃の奥がぎゅっと痙攣する。
生理的な不快感を押し殺し、LINEのカレンダーを開く。健斗と共有しているスケジュールには、今日の日付に『社内会議』とだけ記されていた。
テーブルの上のスマートフォンを掴み、健斗の番号をタップする。呼び出し音が、静まり返ったリビングに無機質に響き渡った。長い、長いコール。
「もしもし?」
ようやく繋がった電話の向こうから、健斗の潜めた声が聞こえた。いつも通りの優しい声色。だがその背景に、微かに遊園地のオルゴールのような音楽が混じっているのを、静の耳は聞き逃さなかった。
「静?どうしたんだ、会議中なんだけど。」
「五千万円はどこへ行ったの。」
静は前置きなしに切り出した。電話の向こうで、健斗の呼吸が一瞬だけ止まった。
「ああ、そのことか。会社の資金繰りが急に厳しくなってね。急な支払いが……」
健斗はすぐに立て直し、流暢なビジネス用語を並べ立てる。だが静の心には響かない。
「振込先は個人口座よ。三上萌紗という名前の。」
静が冷たく言い放つと、健斗の声は明らかに焦りを帯びた。
「なんでそんなことまで知ってるんだ!人の口座を勝手に……」
その時だった。
「パパー」
電話の向こうから、幼い子供の声がはっきりと聞こえた。
静の瞳孔がきゅっと収縮する。スマートフォンを握る指の関節が白くなった。
健斗が慌ててマイクを覆う気配がした。数秒の沈黙の後、彼の声は怒りに染まっていた。
「人のプライバシーを詮索するなんて、最低だぞ!」
「結婚式の準備金がプライバシー?」
静は乾いた笑いを漏らした。
「最近のお前は少し強すぎる。俺を管理しようとしすぎだ、息が詰まる。」
健斗は完全に逆ギレしていた。彼は堰を切ったように、静が会社の経営にいかに貢献していないかを語り始めた。彼女がいなくても、自分一人の力で投資家を見つけられるのだと。
その言葉一つ一つが氷の礫となって、静の心臓に突き刺さる。
静は反論するのをやめた。ただ黙って、彼の罵詈雑言を聞いていた。沈黙が健斗を勘違いさせたらしい。彼が静を屈服させたとでも思ったのか、その声色は施しを与えるかのように和らいだ。
「まあ、悪かったよ。今夜は帰ったら埋め合わせしてやるから、お前は黙って俺のいい奥さんでいてくれればいいんだ。」
一方的にそう告げると、健斗は慌ただしく電話を切った。
ツーツーという無機質な音が耳に残る。静はゆっくりとスマートフォンを下ろした。視線の先、ローテーブルの上には、彼女が健斗のために三日徹夜して修正した企画書が置かれている。胃の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。
立ち上がり、リビングの大きな窓辺へ向かう。きらめく東京タワーの光が、やけに目に染みた。健斗と出会ってからの五年間の献身が、頭の中でガラスのように砕け散っていく。
深く息を吸う。怒りで震えていたはずの手が、不思議と安定を取り戻していた。冷たい理性が、焼け野原になった心に再び君臨する。
静は踵を返し、玄関へと向かった。スリッパも履かず、冷たい大理石の床を裸足で進む。目指すのは、健斗が「仕事の資料があるから」と、彼女が入ることを固く禁じていた書斎。
ドアノブを回すが、鍵がかかっていた。予想通りの展開に、静の唇の端が歪む。彼女はすぐに廊下の突き当たりにある収納庫へ向かい、工具箱を探した。
箱を開けた時、鋭いドライバーの先端が人差し指の皮膚を浅く切り裂いた。赤い血の玉がぷくりと滲む。だが静は眉一つ動かさなかった。
予備の鍵を手に入れ、書斎の前に戻る。鍵穴に差し込み回すと、カチリと軽い音がして、物理的な抵抗が消えた。
ドアを開けると、健斗が愛用している古龍水の匂いが鼻をつく。静は迷わず、部屋の奥に置かれた黒いデスクトップパソコンに向かった。
電源を入れると、パスワード入力画面が現れる。健斗の誕生日。エラー。会社の設立記念日。エラー。
静は目を閉じた。そして先ほど振込履歴で見たあの女の名前を思い出しながら、キーボードを叩いた。
三上萌紗の誕生日。
エンターキーを押す。
システムはあっさりとロックを解除した。画面に現れたデスクトップの壁紙を見て、静は自嘲の笑みを浮かべた。
ディズニーランドを背景に、健斗と萌紗、そして三歳くらいの男の子が幸せそうに笑っている。
静は素早くドキュメントフォルダを開き、隠しファイルとして設定された『備忘録』という名のフォルダを見つけ出した。
クリックすると、画面に無数のファイルが表示される。萌紗に買い与えた高級ブランドのバッグや服の領収書。彼女が住むマンションの賃貸契約書。そして一枚の写真データ。
胎児のDNA鑑定書。
静は自分のスマートフォンを取り出し、画面に映る証拠を一枚また一枚と、無心で撮影していく。
カメラのシャッター音が響くたびに、彼女の瞳から最後の温度が消えていった。
話 2
書斎からリビングに戻った静は、まっすぐ窓際へ向かった。眼下に広がる東京の夜景を見下ろし、スマートフォンの連絡先リストの奥深くに保存された番号を呼び出す。
「母」
三回のコールの後、電話は繋がった。受話器の向こうから、九条家の現当主・九条美智子の冷たく威厳のある声が聞こえる。
「おままごと遊びは、もう終わったのかしら」
静は目を伏せた。
「ええ、私の見る目がありませんでした。どうかお力をお貸しください」
声は、自分でも驚くほど平坦だった。美智子の声に、満足げな笑みの気配が混じる。
「いいでしょう。ただし、条件があるわ。九条家に戻りたければ、すぐに鷹司家との政略結婚を受け入れなさい」
脳裏に健斗と萌紗、そして息子の幸せそうな写真がちらつく。静は一瞬のためらいもなく答えた。
「承知いたしました」
その一言で、過去への退路は完全に断ち切られた。
電話を切ると、静はすぐにノートパソコンを開いた。健斗の会社の内部OAシステムにログインする。かつて自分が設計したシステムだ。管理者権限を使い、中核となる顧客リストのデータバンクにアクセスした。
『権限外のアクセスです』
警告ウィンドウがポップアップする。静は冷静に、自分が仕込んでおいたバックドアのコードを打ち込んだ。警告は瞬時に消え、データのダウンロードが始まる。
プログレスバーがゆっくりと進むのを見ながら、静は立ち上がり、ウォークインクローゼットへ向かった。奥から、五年前にこの家に来た時に持ってきた、たった一つのスーツケースを引きずり出す。
クローゼットに並ぶ、健斗が買い与えた安物の、彼の好みを押し付けただけのフェミニンなワンピースには目もくれない。静は、自分が元々持っていた数着のオーダーメイドのスーツだけを、手際よくケースに詰めていく。
リビングに戻ると、ダウンロードは完了していた。データを暗号化したUSBメモリに移し、自分のアクセス履歴を綺麗に消去する。
その時、玄関の電子ロックが解除される音がした。
健斗が、安っぽい香水の匂いと酒気をまとって帰ってきた。
リビングの明かりに気づき、千鳥足で近づいてくる。彼は、萌紗と会っていた後ろめたさを隠すかのように、静を抱きしめようとした。
静がすっと身をかわす。抱擁は空を切り、健斗は眉をひそめた。
「まだ怒ってるのか」
彼はポケットから、潰れたベルベットの小箱を取り出し、ローテーブルの上に放り投げた。
「ほら、埋め合わせだ。買ってきてやったぞ」
中身は、二万円の値札がついた、見るからに安っぽいネックレスだった。
静は、そのネックレスと口座から消えた五千万円を、頭の中で天秤にかける。唇の端に、凍るような嘲笑が浮かんだ。
その笑みが健斗の自尊心を傷つけたらしく、彼は大声で怒鳴った。
「俺が会社のために、毎日どれだけ苦労してると思ってるんだ!お前は金のことばかりだな!」
静は反論しなかった。ただ、彼の言葉に乗るように静かに言った。
「ええ、本当に大変そうですわね」
その他人行儀な口調に、健斗は虚を突かれた。彼は、静の反論や最終的な妥協に慣れきっていた。感情の読めない反応に、彼は得体の知れない恐ろしさを感じた。
主導権を取り戻そうと、健斗はわざとらしく咳払いをした。
「明日、林代表との一億円の契約がある。お前も必ず同席しろ。いいな」
虚勢を張るその顔を見つめながら、静は心の中で、そのプロジェクトに死刑宣告を下した。しかし表情は変えず、従順に頷いてみせる。
「わかりました」
健斗は満足げに鼻を鳴らし、再び彼女を支配できたと思い込んだまま、バスルームへと消えていった。
シャワーの音が聞こえる。静はスマートフォンを取り出し、林代表のLINEを開いた。
「明日の契約の件、技術的な欠陥が見つかりました。提携は白紙に戻してください」
暗号化されたメッセージを送信する。送信完了の表示を確認すると、スマートフォンをマナーモードにし、スーツケースを引いて玄関へ向かった。
自分のものだった赤いソールのハイヒールに足を入れる。
振り返り、五年を過ごしたこの部屋を見渡した。バッグから、健斗に渡された婚約指輪を取り出す。そして玄関脇のゴミ箱に、ためらいなく投げ捨てた。
ドアを開け、東京の初冬の冷たい風の中に身を乗り出す。
マンションの前には、一台の黒いマイバッハが、エンジン音も立てずに静かに停まっていた。
後部座席の窓が下がり、鷹司家の秘書・加藤誠が恭しく降りてきて、静のためにドアを開けた。
静は身をかがめて車内に滑り込む。ほのかな白檀の香りが、外の喧騒と寒さを遮断した。
「静様、お待ちしておりました」
加藤が、金色の箔押しがされた婚約合意書を差し出す。
「鷹司様が、明日の夜正式にお会いできることを楽しみにしておられます」
静はそれを受け取った。紙面に踊る、鷹司暁という男の力強い署名に指を滑らせる。
彼女の瞳に、揺るぎない決意の光が宿った。
車は滑るように発進し、九条本家へと向かう。バックミラーに映るマンションが、どんどん小さくなっていく。
過去の九条静は、今完全に死んだ。
話 3
翌朝午前十時。九条本家の広大な書斎で、静はメイドが淹れた静岡産の玉露を静かに味わっていた。テーブルに置かれたスマートフォンが短く振動する。
林代表からのメッセージだった。
「ご指示通り、契約直前に技術的欠陥を理由に塚原氏の申し出を断りました」
静は感謝のスタンプを一つ返すと、スマートフォンをテーブルに放り、ノートパソコンで健斗の会社の株価情報を開いた。面白いように暴落している。
予想通り、健斗からの鬼のような着信が始まった。画面には『旦那様』という皮肉な名前が点滅している。静は無表情で着信拒否のボタンを押し続けた。
五回目の着信を拒否した後、健斗から長文のLINEボイスメッセージが届いた。声はパニックと怒りで上ずっている。
「静!林代表に何を言ったんだ!答えろ!」
静は返信もせず、健斗の番号を着信拒否リストに追加した。世界が途端に静かになった。
コンコンと、書斎のドアがノックされる。
健斗からの連絡が途絶え、焦った萌紗は、静の素性を探り始めた。九条家の名と、その本家の所在地を突き止めたのだろう。
「お嬢様、三上萌紗と名乗る女性が屋敷の門前で、静様に会わせろと騒いでおりますが」
執事の丁寧な報告に、静は眉を上げた。健斗の会社が傾き、自分の五千万円が危険に晒されると察して、探りに来たのだろう。
「偏廳(へんちょう)に通してちょうだい」
静はそう命じると、自室に戻り、圧倒的な威圧感を放つ黒いシルクのセットアップに着替えた。ハイヒールを履き、階段を降りる。
偏廳では、萌紗が落ち着かない様子で、九条家の豪華な調度品を値踏みするように見回していた。その瞳には、隠しきれない貪欲さと嫉妬が渦巻いている。
静がドアを開けて入る。ハイヒールが床を打つ硬い音が、萌紗の体を震わせた。彼女は瞬時に哀れでか弱い表情を作り上げる。
「静お姉様……」
萌紗は目に涙を溜め、妹を自称して切り出した。
「健斗さんのこと、怒っているのはわかります。でも、彼の長年の夢を壊さないであげてください……お願いします」
静はソファに腰を下ろした。萌紗に座るよう促しはしない。見下ろす形で冷たく言い放った。
「あの五千万円、何に使ったのかしら」
萌紗の顔がさっと青ざめる。
「あれは……健斗さんが、私が一人で子供を育てるのが可哀想だって、貸してくださったお金で……」
母性を盾に同情を買おうとする。だが静は鼻で笑った。
昨夜撮影した親子のDNA鑑定書の写真をスマートフォンから転送し、テーブルの上に置かれたタブレットに表示させる。そしてそのタブレットを萌紗の足元に滑らせた。
萌紗は恐る恐る画面に目を落とし、その内容を理解した瞬間、か弱い女の仮面が剥がれ落ちた。その瞳は怯えと敵意に満ちている。
「……そうよ!」
開き直った萌紗が立ち上がって叫んだ。
「健斗さんはあなたなんて愛してない!あなたはただの都合のいい道具だったのよ!」
静はティーカップを手に取り、一口含むだけだった。その完全な無視が、萌紗のプライドをいたく傷つけた。
その時、偏廳の扉が乱暴に開け放たれ、警備員ともみ合いながら汗だくの健斗が息を切らして飛び込んできた。
彼はソファに優雅に座る静と、涙目の萌紗を交互に見ると、すぐさま萌紗の元へ駆け寄り、彼女を背後にかばった。
「静!なんて酷い女だ!俺のプロジェクトを潰しただけじゃなく、無実の萌紗までいじめるのか!」
静はかつて愛した男を、滑稽な道化師を見るような目で見つめた。その瞳には怒りも悲しみもなく、ただ骨の髄まで凍るような冷たさだけがあった。
その見慣れない眼差しに、健斗の心臓がどきりと跳ねる。用意していた罵詈雑言が喉の奥に詰まった。
彼はその時初めて、自分が立っている場所の異常さに気づいた。この豪華絢爛な屋敷は、静が借りられるようなレベルではない。
「お前……一体何者なんだ……?」
静は立ち上がり、スカートの皺を軽く払った。
「プロジェクトの件は、わたくしが貴方にした投資のほんの少しの利息を回収しただけですわ」
健斗の顔がみるみるうちに白くなる。彼は何事か叫びながら静の腕を掴もうとしたが、ドアの外に控えていた警備員に一瞬で床に押さえつけられた。
「健斗さん!」
萌紗が悲鳴を上げて健斗に駆け寄る。床の上でみっともなくもがく二人の姿は、気高く立つ静の姿と惨めなほど対照的だった。
「そのゴミと一緒に、わたくしの敷地からお失せなさい」
静は見下ろしそう言い放つと、踵を返して偏廳を出た。
警備員に引きずられていく健斗が、必死に静の背中に向かって何かを叫んでいる。全てを失うことへの巨大な恐怖に飲み込まれているのがわかった。
廊下に出ると、加藤誠が待っていた。彼は今夜の鷹司暁との夕食のスケジュールが書かれたタブレットを静に差し出す。
静は深く息を吸い、頷いた。