話 1
「春臣さん、そろそろ戻らないと」
鷹司理央は、うんざりした息を吐き出した。
婚約披露パーティーの主役であるはずの男は、三十分も前から姿を消している。
理央は豪奢なオートクチュールのドレスの裾を片手で持ち上げ、ホテルの最上階を歩いていた。VIPエリアの廊下には厚いウールの絨毯が敷き詰められ、ジミーチュウのハイヒールは少しも音を立てない。
やがて彼女は、「VIPラウンジ」と記された重厚なドアの前で足を止めた。祖母が手配したこのパーティーは、鷹司家と戸塚家の未来を示す重要な場だ。
それなのに、春臣はいつもそうだ。肝心な時に詰めが甘い。理央はため息を飲み込み、ノックしようと手を上げた。
だが、指がドアに触れる寸前、かすかな声が隙間から漏れ聞こえてきた。
「ねぇ、春臣さん。本当に私のことが一番好きなの?」
甘ったるい女の声。聞き間違えるはずもない、従姉妹の鷹司楓香だ。
「当たり前だろ、お前に決まってる」
低く答える男の声には、生々しい熱が混じっている。紛れもなく、婚約者である戸塚春臣のものだった。
理央の瞳孔が猛然と収縮し、胃の奥から酸っぱいものがせり上がってくる。彼女はそれをこらえるように、きつく下唇を噛んだ。血の味が滲む。ドアの向こうで続く衣擦れと湿った接吻の音は、理央の理性を一本ずつ引き抜いていくようだった。
「じゃあ、理央お姉様とはいつ別れてくれるの?」
「今はまだその時じゃない。家のことがある」
楓香をなだめる春臣の言葉に、理央の全身から急速に血の気が引いていく。指先が氷のように冷たい。怒りよりも先に、どうしようもない虚無感が彼女を襲った。
ああ、そうだったのか。
理央は静かに踵を返した。涙は一滴も出ない。
ただ、この息が詰まる場所から一刻も早く逃げ出したかった。怒りに震える指先が、高価なシルクのクラッチバッグを白くなるほど握りしめる。
焦るあまり足がもつれ、ぐらりと体が傾いだ。
「あっ」 とっさに壁に手をつき、なんとか体勢を立て直した。その時、廊下の曲がり角、照明が作る深い影の中から、すっと黒い人影が現れた。
「きゃっ」
短い悲鳴を上げて後ずさろうとする理央の逃げ道を塞ぐように、男の長い腕が伸びてくる。
ドン、と鈍い音がして、理央の頭のすぐ横の壁に男の手がつかれた。
逃げ場のない状況。
そこに甘い雰囲気は一切なく、濃密な煙草の匂いと、高級なウッディ系の香水が理央の鼻腔を支配した。
恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは春臣のビジネスパートナーであるはずの男——中沢財閥の御曹司、中沢翔馬だった。
彼は漆黒の瞳で、狼狽する理央を面白そうに見下ろしている。その視線が、理央の赤くなった目元と血の滲んだ唇を、ゆっくりと舐めるように動いた。
翔馬は何も言わない。ただ、獲物を追い詰めた捕食者のように理央の反応を観察している。
沈黙が理央の神経を締め上げた。
やがて、翔馬はせせら笑うかのように唇の端を歪め、ゆっくりと身を屈めた。
「鷹司のお嬢さん」
耳元に寄せられた唇から、熱い吐息がかかる。理央の体がこわばった。
「婚約者、乗り換えてみないか?」
悪魔のような低い声が、理央の鼓膜を直接揺さぶった。
話 2
「……結構です」
理央は、かろうじてそれだけを口にした。全身が恐怖で硬直している。彼女は、翔馬の腕を押し返そうと試みた。しかし、鍛え上げられた筋肉はびくともしない。
「私には、そういう趣味はありません」
理央は声を絞り出し、男の拘束から逃れようと身をよじった。
その瞬間、翔馬の瞳が一瞬鋭く光る。彼は壁についていた手を離すと、今度は理央の細い手首を鷲掴みにした。
「やっ……離して」
理央は悲鳴を押し殺した。
ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。パーティー会場には、両家の招待客が大勢いる。醜聞は、鷹司家の名に泥を塗ることになる。
翔馬は、理央の抵抗を完全に無視した。理央の手首を掴んだまま、ぐいぐいと廊下の奥へと引っ張っていく。絨毯が全ての足音を吸い込む。
理央はなすすべもなく引きずられていった。
やがて、二人は一枚の黒いドアの前にたどり着いた。
翔馬がポケットからカードキーを取り出す。それは、このフロアの宿泊者専用エレベーターのカードだった。
エレベーターのドアが開く。
翔馬は、理央を乱暴に中に押し込んだ。
理央が慌てて外に出ようとするのを、自らの体で塞ぐ。
ドアが静かに閉まった。箱が急速に上昇していく。
理央は強い浮遊感に襲われ、胃がひっくり返りそうになった。
チンと軽い音がして、エレベーターが止まる。ドアが開いた先は、ホテルの最上階に一部屋だけ用意されたプレジデンシャルスイートだった。
翔馬は、理央を部屋の中に引きずり込んだ。そして、背後で重々しいロックの音が響く。
理央は完全に閉じ込められた。部屋の中は薄暗かった。床から天井まである大きな窓の向こうに、東京タワーを中心としたきらびやかな夜景が広がっている。その絶景が、今の理央には地獄の風景のように見えた。
「一体、何がしたいんですか」
理央は、赤くなった手首をさすりながら、怒りを込めて翔馬を睨みつけた。
しかし、翔馬は答えなかった。彼はまっすぐバーカウンターへ向かうと、慣れた手つきでワインボトルを開け、二つのグラスに注いだ。琥珀色の液体がグラスの中で揺れる。それを二つ手に持ち、ゆっくりと理央の方へ歩み寄ってきた。
一歩。また一歩。
理央は後ずさる。
やがて、彼女の背中は冷たいガラス窓にぶつかった。
もう逃げ場はない。
翔馬は、理央の目の前にワイングラスを一つ差し出した。
「飲め」
命令するような口調だった。
理央は警戒心を露わにして、そのグラスを睨みつけた。受け取るつもりは毛頭ない。
その態度を見て、翔馬は鼻で笑った。
「まだ、あんな男のために操を立てるつもりか」
その一言が、理央の心の最も柔らかい部分を抉った。彼女はカッと頭に血が上り、翔馬を睨み返す。
その隙を、翔馬は見逃さなかった。グラスをテーブルに置くと、素早く理央の顎を掴んだ。ざらりとした親指の感触。理央は無理やり顔を上げさせられる。目の前には、侵略的な光を宿した翔馬の瞳があった。
「っ……」
理央は顔を背けようとした。
しかし、翔馬は顎にかける力を強め、それを許さない。彼の親指が、理央の震える下唇をゆっくりと撫でた。理央の全身にぞくりと鳥肌が立つ。
「裏切り者に復讐する一番いい方法はわかるか?」
翔馬が囁く。
「そいつよりもっと堕ちることだ」
理央の脳裏に、ドアの向こうで聞こえた春臣と楓香の声がフラッシュバックした。
『お前に決まってる』
『いつ別れてくれるの?』
理性を保っていた糸が、ぷつりと切れる音がした。理央の瞳から光が消え、ただ茫然と翔馬を見つめる。
翔馬は、その変化を敏感に察知した。テーブルの上のグラスを手に取ると、一気にワインを口に含んだ。そして、理央の唇をこじ開けるように塞ぐ。
抵抗する間もなかった。
濃厚なワインが彼の舌と共に、理央の口内へと流れ込んできた。
話 3
理央は激しく咳き込んだ。
口から溢れた赤ワインが、彼女の白い首筋を伝い、鎖骨の窪みに溜まる。その一滴の雫が、まるで血のようだった。
「ん……っ」
翔馬はその隙を見逃さなかった。ワインの香りが漂うキスを、さらに深く沈めていく。
理央は必死に抵抗した。両手で翔馬の硬い胸板を押す。しかし、男の体は岩のように微動だにしない。
翔馬は理央の両手首を片手で掴むと、頭上へ押し上げ、そのまま冷たい窓ガラスに縫い付けた。
背中に伝わるガラスの冷たさ。正面から焼き付くような翔馬の体熱。その温度差が理央の感覚を狂わせていく。
翔馬の唇が、理央の唇から離れ、長くしなやかな首筋へと移っていく。
理央は、呼吸が乱れた。目尻から一筋の熱い雫が滑り落ちる。屈辱の涙だった。
翔馬はそれに気づいた。動きを止め、舌先でそっとその涙を掬い取る。塩辛い味がした。
「悔しいか」
低い声で問われる。その言葉が引き金になった。
理央の中に堪えていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。彼女は子供のように声を上げて泣き始めた。裏切られた悲しみ。自分の愚かさへの怒り。全てが混濁し、嗚咽となってほとばしる。
翔馬はしばらく黙って、理央を抱きしめていた。その腕は驚くほど力強く、そして優しかった。
やがて彼女の嗚咽が少し収まった頃、翔馬はその顔を両手で包み込むように持ち上げた。
「もう一度聞く」
彼の瞳が、泣き濡れた理央の瞳をまっすぐに射抜く。
「俺を利用して、あいつらに復讐するか?」
理央は翔馬の目を見つめ返した。その奥には底なしの闇が広がっている。
この男の手を取れば、もう二度と元には戻れない。
わかっていた。
それでも、彼女はゆっくりと頷いた。春臣と楓香の顔が脳裏に浮かぶ。あの二人を許すことなどできなかった。
理央の返事を見て、翔馬の瞳に一瞬、満足げな光が宿った。
彼は理央を軽々と横抱きにし、部屋の中央に置かれたキングサイズのベッドへ向かう。理央の体は柔らかなシルクのシーツの上に投げ出された。
翔馬は自分のネクタイを乱暴に引き抜き、シャツのボタンを一つずつ外していく。
理央はぼんやりとその姿を見上げていた。緊張でシーツを握りしめる指先が白くなる。
やがて、翔馬の体が覆いかぶさってきた。全ての光が遮断される。
ビリッと布が裂ける音がした。理央が身にまとっていた高価なドレスが無残に引き裂かれる。
その音は、静かな部屋の中でやけに大きく響いた。
理央は静かに目を閉じた。もう何も考えたくなかった。痛みと快楽の狭間で、ただこの身を委ねるしかない。
翔馬の動きは覇道的だった。しかしその中に、どこか壊れ物を扱うような慎重さが含まれていることに、理央は気づかなかった。
鋭い痛みが体を貫き、彼女は思わず翔馬の肩に歯を立てる。「うっ」と低く呻く翔馬。それでも彼は怯むことなく、さらに深く理央を求めた。
窓の外の夜景がいつしか闇に溶けていく。部屋の中の温度だけが、ひたすらに上昇を続けた。
裏切りと復讐――二つの感情が渦巻く中で、二人の体は完全に一つになる。
理央は、自ら深い淵へと身を投じたのだった。