話 1
「黒田逸朗、あなたどうかしてるんじゃないの? どうして綾に隠れて、彼女の骨髄を大森芽依に渡したの?」
江都のプライベート病院のVIP病室に、黒田知佳が怒鳴り込んできた。弟の逸朗を指さし、憤然と問い詰める。
夏目綾は薬を受け取って戻ってきたところ、ちょうど病室の入口で夫と義姉の言い争いを耳にした。
「姉さん、俺だって仕方なかったんだ」 逸朗の声は異常なほど平静で、むしろ冷酷にさえ響いた。「あの時、芽依の容態は非常に危険だった。綾の骨髄だけが、彼女を救える唯一の手段だったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、綾の心は完全に冷え切った。
大森芽依?
逸朗の初恋の女か。
彼女が戻ってきたというのか?
(だとしたら―― あの健康診断は?逸朗が自ら段取りして、未来の子どものためだと言っていた、体外受精の検査は? 最初から全部―― 私に何の疑いもなく大森芽依のために骨髄提供させるための、詐欺だったというのか!?)
「綾はもともと体が弱いのに、この間は数日間も高熱を出して、ベッドから起き上がれなかったじゃない。あれはあなたが無理やり骨髄を採取させたせいでしょう?」
知佳の声は、信じられないという怒りに満ちていた。「大森芽依に何を吹き込まれたの? 昔、あなたは彼女のために命を落としかけて、ベッドで丸五年も寝たのよ。 この五年間、ずっとあなたのそばで看病してきたのは綾でしょう。 体が回復した途端、芽依のために、自分の妻の安危さえ顧みないというの?」
「もういい」 逸朗は姉の言葉を遮った。「骨髄移植は無事に終わったし、綾も今は元気だ。 この話はこれで終わりにしてくれ。芽依はまだ回復したばかりなんだ。こんな話を聞かせて、彼女の気分を害さないでくれ」
知佳は唸るような声を絞り出した。 「じゃあ、綾はどうなるの? 彼女を何だと思っているのよ!」
ドアの外にいた綾の体はぐらりと揺れ、立っていられないほどだった。冷たい壁に寄りかかり、全身の血が凍りついたように感じた。
強烈な吐き気が喉元までこみ上げてくる。
(このクズ!)
綾は二十歳の時、逸朗に出会い、一目惚れした。
五年前、逸朗は芽依のためにトラブルに巻き込まれ、襲撃されて瀕死の重傷を負った。
命の危険を顧みず逸朗を救い出したのは綾だった。その際、綾自身も襲撃者に三度刺された。
救出された時、彼女は全身に傷を負っていた。
退院の日、逸朗は目を真っ赤にして彼女を固く抱きしめ、一生愛し続けると誓った。
結婚後、彼は常に優しく、思いやりがあり、一途な、誰もが羨む完璧な夫だった。
綾もまた、自分が世界で一番幸せな女だと信じて疑わなかった。
しかし、この嘘で巧みに作り上げられた幸福のバブルが、 いわゆる『健康診断』によって、あっけなく弾け飛ぶとは思いもしなかった。
病室の激しい口論は、どうやらやんだようだった。
綾は深く息を吸い込み、背筋を伸ばして、重いドアを開けた。
病室では、知佳が目を赤くしていた。綾が入ってくるのを見て、彼女の顔に一瞬、狼狽と痛ましさが浮かんだ。
逸朗は物音に気づいて振り返った。その目に一瞬、後ろめたさがよぎったが、すぐにいつもの優しい表情で覆い隠した。「薬、取ってきたのか」
彼は歩み寄り、ごく自然に彼女の手から薬袋を受け取ろうとした。
綾はさりげなく彼の手を避け、感情のこもらない静かな声で言った。「ええ。もう行ける?」
逸朗は何事もなかったかのように手を引っ込め、愛おしむように微笑んだ。「ああ、帰ろう」
病院を出て、ナースステーションの前を通りかかった時、二人の若い看護師が羨ましげに囁き合う声がかすかに聞こえてきた。
「見て、黒田さんと奥様よ。本当にお似合いだわ」
「黒田夫人って幸せよね。黒田さんはハンサムでお金持ちなだけじゃなくて、スキャンダルひとつないなんて。まるで物語から抜け出してきた王子様みたい……」
「ええ、黒田夫人は本当に幸運だわ。あんな完璧な旦那様と結婚できて」
(完璧な夫?)
綾は心の中で冷笑した。
彼女の能力で会社での地位を固めておきながら、 今度は初恋の相手のために、彼女を臓器を自由に使える容器としか見ていない男……。
(ふん、これが私の“完璧な夫”というわけか!)
二人が病院の入口まで来た時、逸朗の携帯電話が鳴った。
彼は画面を一瞥すると、その表情はすぐに険しくなり、素早く画面を消した。
しかし、綾はその名前をはっきりと見てしまった。――「芽依」
彼女の心臓は、見えない手で強く握りつぶされたかのように、一瞬で氷の底へと沈んだ。
「どうしたの?誰から?」喉がカラカラに乾き、答えは分かっているのに、それでも口を開いて尋ねた。
「何でもない。会社の緊急プロジェクトで少し問題が起きて、すぐに対応しなきゃならなくなったんだ」 逸朗は軽い口調でそう言いながら、いつものように彼女の髪を撫でようと手を伸ばした。「先にタクシーを呼んであげるから、君は先に帰ってゆっくり休んでくれ」
綾は顔を背け、彼の手を避けた。彼女は顔を上げ、平静な眼差しで彼を見つめてた。「今日は週末よね。 明日まで待てないほど緊急な案件なの?」
逸朗は一瞬ひるんだが、すぐに困ったような、しかし愛おしむような表情を浮かべた。「いい子だから、言うことを聞いてくれ。仕事が終わったら、すぐに戻って君のそばにいるから」
その口調は優しいが、有無を言わせぬ強引さを帯びていた。
逸朗は携帯電話を取り出し、手慣れた様子で配車アプリを使って彼女のために車を呼んだ。
逸朗は彼女が車に乗り込むのを見届け、ドアを閉めてくれた。
「家に着いたら連絡してくれ」 彼は車の窓越しにそう言い、その笑顔は相変わらず完璧だった。
車はゆっくりと動き出した。
綾はバックミラー越しに、そのすらりとした背中が迷いなく向きを変え、 その目を引く黒いベントレーに向かっていくのを見た。車はすぐに高速で走り去ったが、その行き先は――会社とは全く逆方向だった。
彼女はシートに深く身を沈め、目を閉じた。
再び目を開けた時、その瞳には底知れぬ冷たさだけが宿っていた。
離婚!
絶対に離婚してやる!
自分の事業と財産を、あの男女に渡すものか!
綾は携帯電話を取り出し、ほとんどかけたことのない番号を探し出した。
その番号の主は、大学時代の先輩、江原靖だった。
今や彼は江都で最も有名な弁護士の一人であり、その強硬な弁護手腕と不敗の記録で知られていた。
彼女は深く息を吸い込み、その番号に電話をかけた。
『もしもし、先輩、私です、夏目綾……』
綾が電話を切った途端、 見知らぬ番号からのメッセージが 携帯電話の画面に表示された。
「黒田夫人、骨髄をありがとう。もう無駄な抵抗はやめたら?恋愛において、愛されていない方が余計な存在なのよ」
その言葉は、焼けた鉄の烙印のように、綾の心に深く刻み込まれた。
彼女は携帯電話を強く握りしめ、目の前が真っ暗になるのを感じた。
「お客様、大丈夫ですか?」運転手がバックミラー越しに彼女の様子を見て、心配そうに尋ねた。
綾は言葉が出なかった。
彼女は力任せに車の窓を下ろし、冷たい風が顔に打ち付けるままに任せた。そうしてようやく、胸からこみ上げてくる憎悪をかろうじて抑え込んだ。
前方の信号が青に変わった。
「発車します」運転手がそう言って、アクセルを踏んだ。
その時、一台の黒いマイバッハが対向車線から現れ、彼女の車とすれ違った。
後部座席で書類に目を通していた岩崎海渡は、突然、胸が締め付けられるような感覚に襲われ、無意識に顔を上げた。
車の窓の外に、傷ついた表情を浮かべた綾の顔が、一瞬だけ見えた。
「引き返せ」
海渡の瞳孔が猛然と収縮し、彼は迷いなく命じた。
「すれ違ったタクシー、追え!」
話 2
先ほど見た夏目綾のあの脆い表情は、決して幸福なものではなかった。
それはむしろ…… 魂を抜き取られたような、絶望の表情だった。
岩崎海渡が乗るマイバッハは次の交差点でUターンし、前を走るタクシーのすぐ後ろにぴたりとつけた。
スモークガラス越しに、海渡の視線は後部座席のぼんやりとした横顔に釘付けになっていた。
彼女は窓の外に顔を向け、華奢な肩が微かに震えている。
それは……ある感情を必死に押し殺そうとした結果、身体が耐えきれずに起こる生理的な震えだった。
「黒田逸朗……」
海渡はその名を低く呟き、その瞳には氷のような冷たさが宿っていた。
かつてあれほどまでに生き生きとしていた人間が、 どうすればこんな姿になってしまうのか。彼女に一体何があったのか、海渡には想像もつかなかった。
タクシーは高級住宅街に入り、一軒の洋館の前で停まった。
海渡は運転手に合図を送り、少し離れた場所に車を停めさせた。
彼は車内に座ったまま、静かに綾を見つめていた。
彼女は豪華な洋館の前に立ち、見上げるようにその建物を眺めている。
彼女は泣いていなかった。だが、その心の奥底からにじみ出るような壊れかけの気配は、どんな号泣よりも見る者の心を締め付けた。
そして、ドアが閉まった。
しばらくの沈黙の後。
「今井秘書」 海渡の声は、不気味なほど静かだった。
「岩崎社長」
「取締役会に通知しろ」海渡の眼差しは極限まで冷え切っていた。「本日より、黒田グループとの全ての提携を無期限で停止する。 既に契約済みのプロジェクトも、全て破棄だ!」
今井直人は息を呑んだ。「社長、それだと少なくとも20億円の初期投資が……」
「言われた通りにしろ」 海渡は有無を言わせぬ口調で彼を遮った。「それから、夜が明ける前に、黒田逸朗と妻の夏目綾に関する完全な調査報告書を私の手元に用意しろ」
「……かしこまりました」
***
その頃、綾は明かりを点け、誰もいない部屋を照らした。
逸朗はまだ帰っていなかった。
もちろん、彼がこれほど早く大森芽依の元から戻ってくるはずもなかった。
綾はスリッパに履き替え、まっすぐ二階の書斎へと向かった。
ここは逸朗の書斎だ。互いのプライバシーを尊重し、普段彼女がここに入ることはほとんどなかった。
だが今となっては、その“尊重”という言葉が滑稽に響く。
綾はパソコンを立ち上げ、彼がよく使うであろうパスワードをいくつか試してみた。
彼女の誕生日など、全てパスワードエラーが表示された。
綾は冷笑を浮かべた。
どうやら、彼はとっくの昔から自分を警戒していたらしい。
彼女の視線が書斎全体を巡り、隅に置かれた小型の金庫で止まった。
彼女が欲しいものは、もしかしたらその中にあるのかもしれない。
綾が思案にふけっていると、ハンドバッグの中の携帯電話が鳴った。
取り出して画面を見ると、「黒田逸朗」の名前が表示されている。
綾は数秒間画面を見つめた後、通話ボタンを押し、感情のこもらない声で言った。『もしもし?』
『綾、もう家に着いた? 連絡、待ってたのに』
電話の向こうから、逸朗のいつもの優しい声が聞こえてきた。
背景は静かで、会社にいるようには聞こえない。
『帰ったわ。連絡するの忘れてた』綾の返事は簡潔だった。
逸朗は一瞬言葉を切り、彼女の声色から冷たさを察したようだった。『どうした? 元気がないようだが、まだ体調が悪いのか?』
『ううん、ただ少し疲れただけ。もう休みたいの』 綾は窓辺に歩み寄りながら言った。
『そうか。じゃあ、先に休んでくれ。こっちの仕事が少し厄介で、帰りが遅くなるかもしれない。待たなくていいから』 逸朗は優しく気遣うように言った。『家政婦に頼んでおかゆを作ってもらえよ。最近は体が弱っているんだから、風邪をひかないようにな』
その偽善的な気遣いを聞き、綾は吐き気を催した。
(体が弱い? それもこれも、あなたのせいじゃない!)
『わかったわ』 彼女は冷たく答え、そのまま電話を切った。
もう一秒たりとも、彼の声を聞きたくなかった。
騙され、骨髄を抜き取られた後、彼女はようやくこの卑劣な男の本性を見抜いた。
かつて恋に盲目だった綾は、もう死んだ。
今の彼女は、冷静に、一歩ずつ、自分の全てを取り戻す。
そして、あの卑劣な男女に、相応の代償を払わせるのだ!
翌日の昼、逸朗はようやく帰宅した。
彼は靴も履き替えずに家に入ると、焦った様子で綾を抱きしめ、なだめ始めた。
「すまない、綾」徹夜明けで少し掠れた彼の声は、誠実さに満ちているように聞こえた。「昨夜は会社の件が厄介で、夜が明けるまでずっと処理していたんだ。 帰りが遅くなって、怒らないでくれ、な?」
綾は彼の腕の中に抱かれ、顎を彼の肩に乗せた。
その角度から、彼女の視線は彼の白いシャツの襟元に注がれた。
そこには、くっきりと口紅の跡が残っていた。
綾の視線は、その口紅の跡に半秒ほど留まった。
彼女の脳裏には、あの吐き気を催すような光景が鮮明に浮かび上がった。
甘ったるく、むせ返るような香水の匂いが、彼女の鼻腔を突いた。
それは、別の女の匂いだった。
(ふん! 会社の件が厄介? 厄介なのは愛人の方でしょうね!)
綾は吐き気をこらえ、逸朗から距離を取った。
「怒ってないわ」彼女は顔を上げ、完璧な微笑みを浮かべた。「お疲れ様。先にシャワーを浴びてきて。お手伝いさんに昼食の準備を頼んでおくから」
「ああ。そうだ、綾。君にプレゼントを用意したんだ」
逸朗はそう言うと、濃いブルーのベルベットのギフトボックスを差し出した。
綾は無関心に箱を開けた。高価なダイヤモンドのネックレスが目に飛び込んできた。
彼女は淡々と一瞥し、内心では何の感情も湧かなかった。
逸朗はそれに気づかず、綾が喜んでいると勘違いしている。「気に入ったか? 君のために心を込めて選んだんだ。世界に一つしかないセットだぞ」
綾は口元を微かに動かし、それから心から嬉しそうなふりをした。「本当? 感動したわ……。あなた、そんなに忙しいのに、私のためにプレゼントを選ぶ時間を作ってくれたなんて」
逸朗は彼女の冷淡さに全く気づかず、笑って彼女の髪を撫でた。「君が喜んでくれるならそれでいい。じゃあ、シャワーを浴びてくるよ」
彼が階段を上っていく背中を見送り、綾の顔から笑顔が瞬時に消えた。
浴室からすぐに水の音が聞こえてきた。
綾は3分待った。
それから立ち上がり、階段を上った。
半開きの寝室のドアを押して中に入ると、逸朗のシャツがベッドの上に投げ捨てられているのが見えた。
シャツの襟元にある口紅の跡が、目に突き刺さるように赤い。
綾の視線はベッドサイドテーブルに注がれた。
彼の携帯電話が、画面を下にしてそこに置かれている。
彼女は歩み寄り、携帯電話を手に取った。
パスワードは、二人の結婚記念日。
逸朗は一度も変えていなかった。彼は、それが人生で最も重要な日だと言っていた。
なんて皮肉だろう。
綾はパスワードを入力した。
携帯電話のロックが解除された。
彼女は素早くメッセージとアルバムを確認した。
中身は異常なほどきれいで、 意図的に消去されたかのようだった。
彼女が携帯電話を置こうとした、その時。
ブブッ!
携帯電話が彼女の手のひらで震えた。
新しいメッセージが画面に現れた。
「ダーリン、苦しいの」
綾の指先が止まった。
立て続けに、二通目、三通目のメッセージがポップアップした。
「傷口から血が出てる。私、死んじゃうのかな?」
「あなたが必要なの。 今すぐ来て」
送信者:芽依。
そして、一枚の画像が読み込まれた。
その画面を認識した瞬間、綾の瞳孔が急激に収縮した。
写真の中では、芽依が全裸で、まるで所有を誇示するかのように、一人の男の上にまたがっていた。
彼女の頬は紅潮し、目はうつろにカメラを見つめ、その鎖骨には無数のキスマークが刻まれている。
彼女の首にかけられたダイヤモンドのネックレスは、逸朗が先ほど綾に贈ったものと全く同じだった。
逸朗が愛用する限定版パテック・フィリップの腕時計をはめた手が、女の腰に無造作に回されている。
だが、綾の血を凍らせたのは、写真の背景だった。
それは、彼女のベッドだった。
彼女が自ら選び、主寝室に置いた特注の大きなベッド。
部屋の照明、装飾品、そしてベッドサイドテーブルに置かれた、彼女が読みかけの本……。
すべて、すべてが、彼女に向かって叫んでいる。
(ここで、彼らは――!私の枕元で――汚らわしい真似をしやがったんだ!)
綾は唇を固く噛み締め、口の中に血の味が広がるのを感じた。
そして。
彼女は、あの淫靡な写真を含む、全てのチャット履歴を選択した。
転送をクリックする。
宛先:夏目綾。
ファイルの送信状況バーが読み込みを始めた。5%……10%……。
彼女は、ゆっくりと進むプログレスバーを食い入るように見つめた。
37%……52%……。
静まり返った寝室で、彼女の緊張した心臓の鼓動が無限に大きくなっていく。
その時―― カチャッ!
背後で鍵の回る音がした。
ドアが、開く――!
話 3
夏目綾の心臓は、 その一瞬で 止まったかのように感じた。
彼女は息を殺して緊張しながら待ったが、予想していた足音は聞こえてこなかった。
綾はゆっくりと振り返った。
ドアは開いていたが、その外に人の姿はなかった。
今の音は……風のせいだったのだろうか?
92%……100%。
「送信完了」 画面に表示が飛び込んだ。
綾は大きく息を吐き、背中が冷や汗でびっしょりになっていることに気づいた。
彼女は素早く送信記録を削除し、すべてを元通りにした。
綾はためらうことなく、音もなく寝室を抜け出し、静かにドアを閉めて階段を下りた。
リビングに戻ると、彼女は自分のスマートフォンを手に取った。
画面には、先ほど転送したチャット履歴のすべてが、確かに保存されていた。
綾は、あの挑発的な写真を見つめ、唇の端に冷たい笑みを浮かべた。
彼女はすぐに弁護士とのチャット画面を開き、ファイルを転送してメッセージを添えた。 「先輩、新しい証拠です」
続いて、彼女はあの濃いブルーのジュエリーボックスの写真を撮り、顔なじみの高級中古品店の店主に送った。メッセージにはこう記す。「これ、売って。売上は全額、婦人児童保護基金に寄付して」
すべてを終えてスマートフォンを置いた、その時だった。階段から足音が聞こえてきた。
逸朗が濡れた髪をタオルで拭きながら階段を下りてきた。リビングに綾がまだ立っているのを見て、彼は少し驚いたように尋ねた。「綾、まだ起きてたのか?休まなくて大丈夫か?」
「少し気分が悪くて」綾は振り返り、彼を静かに見つめて言った。「今夜は客室で寝るわ」
逸朗は一瞬呆然とし、わずかに眉をひそめた。「どうしたんだ?そんなに具合が悪いのか?医者を呼ぼうか?」
そう言うと、彼はごく自然に歩み寄り、彼女の額に手を当てようとした。
「いいえ、結構です」 綾は半歩後ずさり、彼の手を避けた。「一晩寝れば治ると思います」
逸朗の差し出した手は、気まずそうに宙に止まった。彼女はためらうことなく振り返り、客室に入ってドアを閉めてしまう。
カチッ!
逸朗は、固く閉ざされたそのドアを見つめながら、心に言いようのない不安がよぎるのを感じていた。
***
翌朝早く、逸朗は緊急の電話を受け、慌ただしく家を出て行った。
階下で車のエンジン音が遠ざかるのを聞くと、綾はすぐに目を開けた。その瞳は澄み切っていて、眠気は微塵もなかった。
朝食を終え、出かけようとしたその時、親友の大島瑠美から電話がかかってきた。
綾は着信画面を見て、わずかに微笑み、すぐに電話に出た。
『綾、大丈夫?』瑠美の声には、焦りと心配が滲んでいた。『昨夜、接待の食事会で逸朗を見かけた気がするの!彼の隣には女がいて、二人の様子はすごく親密だった! 私、頭にきて飛びかかりそうになったんだけど、一緒にいた友達に止められちゃった』
綾は、ひどく落ち着いた声で答えた。『瑠美、ありがとう。その件はもう知ってる。彼とは離婚するつもり』
綾は、受け取った写真をメッセージアプリで瑠美に送った。
瑠美はそれを見るなり、怒りでスマートフォンを握りつぶしそうになった。『ひどすぎるわ!黒田逸朗、あのクズ!それに、この恥知らずな女、よくもこんな写真を送って挑発してきたわね!? 誰なの、この女!ぶっ殺してやる!』
『大森芽依。逸朗がずっと忘れられずにいた初恋の相手よ』 綾の声は淡々としていた。『彼女がこの写真を送ってきた目的は、私を怒らせて逸朗と大喧嘩させ、その隙に私の座を奪うこと。それだけ』
『とっくにあのクズ男とは離婚すべきだったのよ!あいつと大森芽依、二人でくっついて、もう他の人を不幸にしないでほしいわ。 私に言わせれば、あんな連中に情けをかける必要なんてない。あいつらがやったことを全部ネットに晒して、世間の目にさらしてやるべきよ!あの女は“泥棒猫”の烙印を押されて、一生消えない恥を背負わせてやるべきだわ!』
綾は唇の端に冷たい笑みを浮かべた。『私はただ、適切なタイミングを待っているだけ。 直接大騒ぎするのは最悪の手よ。自分だけ惨めになるだけで、何も解決しない』
彼女は一瞬言葉を切り、続けた。『瑠美、あなたに一つお願いがあるの』
『何でも言って!お金なら出すし、人手なら探すから!私、とっくにあのクズの本性は見抜いてたんだから。ずっと気持ち悪いと思ってた!』瑠美は、いつでも友人のために一肌脱ぐ覚悟だという様子だった。
これこそが本当の友人。
綾の心に温かいものがこみ上げてきた。こんな友人がいてくれるなんて、本当にありがたい。
『瑠美、じゃあ二つお願いがあるわ。一つは、セキュリティがしっかりしたマンションを探してほしい。もう一つは、大森芽依って女を調べてほしいの。できるだけ詳しい資料が必要よ』 綾は、今の自分の立場では直接調査に動くことができなかった。
『わかった、任せて』 瑠美は即座に快諾した。
***
逸朗が慌ただしく会社に駆けつけると、アシスタントの久保潤が深刻な表情で出迎えた。「黒田社長、大変です。岩崎グループが突然、一方的に我々朝日製薬との協力プロジェクトを打ち切ると通告してきました。彼らの態度は非常に強硬で、交渉の余地は一切ありません」
「どういうことだ? これまで順調に進んでいたはずじゃないか」逸朗は眉をひそめた。
「新しい社長が自ら下した決定だそうです。しかも、我々はこの案件にすでに巨額を投じています。もしこのまま協力が打ち切られれば、会社の資金繰りに深刻な問題が生じます!」
逸朗の足がぴたりと止まり、その表情が瞬時に険しくなった。「岩崎の新社長?一体何者だ?」
「岩崎海渡です!」
「何だと?彼が?」逸朗の顔色が一変し、眉間に深いしわが刻まれた。
ビジネス界において、 岩崎海渡という名前は絶対的な実力と冷酷非情な手腕の代名詞だった。
彼は、手ごわい相手として悪名高い。
巨大な権力を持ちながら、めったに表舞台には姿を現さない。
ただ、ここ二年ほどは海渡の事業の中心は海外にあったはずだ。まさか突然帰国し、岩崎グループを継ぐとは。そして、就任後最初の大仕事が、朝日製薬を狙ったものだったとは!
「理由は何だ? 岩崎グループが一方的に契約を打ち切るなら、正式な説明があるはずだ!」 逸朗の声は氷のように冷たく、足は止まることなく社長室へと向かった。
潤は早足で後を追い、苦しげな口調で説明した。「岩崎グループの公式な説明では、内部での再評価の結果、我々朝日製薬の『経口液新薬』プロジェクトは、コア技術の安定性およびその後の臨床データサポートにおいて重大な不確実性が存在し、彼らのグループの投資リスク管理基準に合致しない、とのことです」
「でたらめを!」逸朗は低く罵り、勢いよく社長室のドアを開けた。「このプロジェクトの初期臨床データは、彼らもとっくに審査済みで、非常に満足していると表明していたはずだ! これは明らかに口実だ!」
彼は苛立たしげにネクタイを緩め、広々としたデスクの椅子に腰を下ろした。
このプロジェクトは、朝日製薬の今後三年間の中核戦略であり、会社の命運をほぼ全てこのプロジェクトに賭けていた。
「すぐに岩崎海渡に連絡を取れ」逸朗は無理やり自分を落ち着かせ、命令を下した。「私が直接、彼と話す」