話 1
「ママ、あつい」
娘の美晴がぐずり、静のワンピースの裾を引いた。静は身を屈め、小さな額にそっと手を当てる。熱い。じっとりとした汗が手のひらに伝わってきた。
重たい黒の喪服が背中に張り付く。息が詰まるような暑さだった。
今日は、鷹司家の長男の葬儀だった。彼の突然の病没が、親族一同を深い悲しみへと突き落とした。静も、この義理の兄の若すぎる死を、無念に思っていた。
静は娘を抱き上げた。弔問客でごった返す人波を縫って進む。遠縁の親族たちが投げる品定めするような視線が肌に突き刺さる。静は俯き、足早にその場を離れた。
側庭に面した障子戸が、わずかに開いていた。そこへ滑り込む。外界の読経の声がすっと遠のき、代わりに庭の鹿威しが「こん」と澄んだ音を立てた。
客間の畳に美晴を寝かせ、薄い掛け布団をかける。娘は不安そうに身じろぎした。
静は娘の背中を優しく叩き続けた。やがて穏やかな寝息が聞こえ始める。ようやく立ち上がり、水を求めて厨房へ向かおうとした。
客間の戸を開け、木製の回廊へ一歩踏み出す。床板が小さく軋んだ。静は咄嗟に動きを止め、息を殺す。
娘を起こさなかったことを確認し、再び歩き始めた。書斎の前を通り過ぎようとした時、重厚な彫刻が施された木製の扉が完全には閉まっていないことに気づいた。
そのまま通り過ぎるつもりだった。しかし、扉の隙間から、押し殺したような低い泣き声が漏れ聞こえ、足がその場に縫い付けられた。
何事かと隙間に近寄る。狭い視界に映ったのは、床に脱ぎ捨てられた男性用のスーツの上着だった。
夫である鷹司暁のオーダーメイドだと、一目でわかった。心臓が大きく跳ね、一拍抜けた。
無意識に扉を押そうと手を伸ばす。指が戸枠に触れた瞬間、中から、暁の兄嫁である西園寺絢子の甘い喘ぎ声が聞こえた。
指が激しく縮こまる。爪が木の表面を引っ掻き、鋭い痛みが走った。巨大な悪夢が、現実となって押し寄せてくる。
隙間から中を窺う。暁が絢子を書斎の机に押し付けていた。薄暗がりで視界は不鮮明だったが、胃の腑がひっくり返るような感覚に襲われた。
「暁さん、ひどい……」
絢子の泣きじゃくる声が、扉越しにくぐもって聞こえる。静は音を立てまいと、必死で下唇を噛んだ。
「すべては鷹司のためだ」
暁の低い声が空気を切り裂く。その冷酷な響きに、静の目の縁が瞬時に赤くなった。
「あなたの子供を産ませて、それで私の立場も……」
絢子の貪欲な声には、もはや何の遠慮もなかった。静は雷に打たれたように立ち尽くす。
暁は答えなかった。ただ、絢子の言葉を遮るように深く口づけた。衣擦れの音が、静寂の中で不気味に増幅される。静の手足から急速に血の気が引いていった。
書斎の中で、何かが床に落ちる重い音がした。
静は驚いて半歩後ずさり、冷たい壁に背中を打ち付けた。
暁が動きを止め、扉の外へ鋭い視線を向けた。その視線はまるで実体を持った刃のようだ。静は恐怖に息を呑み、両手で口を覆った。
すぐにハイヒールを脱ぎ、手に提げる。冷たい木の床を裸足で踏みしめ、客間の方へ狂ったように走った。
客間に逃げ込み、勢いよく障子戸を閉める。滑車の擦れる耳障りな音が響いた。静は戸に寄りかかり、大きく喘いだ。
物音に驚いて、娘が小さく身じろぎした。静は震える両手を無理やり押さえつけ、娘のそばへ歩み寄る。そして、その小さな体を強く抱きしめた。
廊下から重い足音が聞こえてくる。恐怖が心臓を鷲掴みにした。静は目を閉じ、子供をあやしているふりをした。
足音は客間の前で止まった。薄い紙一枚を隔てて、暁の影が部屋に落ちるのがわかる。
「誰かいるのか」
感情の欠片も含まない、氷のような声だった。静の喉は締め付けられたように、声が出ない。
「……ママ?」
娘が寝ぼけ眼で呟いた。その声が死のような静寂を破る。静はそれを好機と捉え、掠れた声で答えた。
「美晴の具合が少し……」
扉の外の影は数秒留まった後、ゆっくりと遠ざかっていった。圧迫感が消え去ると同時に、静の全身から力が抜けていく。
娘の無邪気な寝顔を見つめる。堪えていた涙が、ついに堰を切って溢れ出した。信じていた世界が、音を立てて崩れ落ちていく。
静は涙を拭い、立ち上がって化粧台へ向かった。鏡に映る自分の顔は、血の気を失い真っ白だった。両手で頬を強く叩き、無理やり意識を覚醒させる。
やがて彼女は、非の打ち所のない穏やかな表情を作り上げた。そして、部屋の戸を開け、再び陽光の下へと歩み出す。
その瞳の奥には、刺すような冷たい光が宿っていた。
話 2
静は回廊を渡り、前廳へと向かった。弔問客の波に紛れ込む。
喪服の裾を整える。周囲の親族たちが偽りの言葉で挨拶を交わしていた。静は硬い笑みを浮かべたまま、小さく頷いて応じる。
廊下の向こうから暁が現れた。スーツには一点の乱れもない。静の視線が、彼のネクタイにできた微かな皺を捉えた瞬間、再び胃がせり上がってくるような感覚に襲われた。
暁は静の隣に来ると、ごく自然に彼女の腰を抱いた。布越しに伝わる手のひらの温度に、静の全身の筋肉が瞬時に強張る。
「美晴の手を」
そう口実にし、静は暁の腕から滑るように抜け出した。暁の手が、宙で一瞬だけ留まる。
そこへ大奥様の鷹司千代が歩み寄ってきた。威厳のある視線が二人を射抜く。静は従順に頭を垂れ、瞳の奥の嫌悪を隠した。
「暁。可哀想な絢子さんを、あなたがしっかり支えてあげなさい」
千代が念を押すように言った。暁は重々しく頷く。静は袖の中で、掌に爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。
法事が終わり、静は美晴の手を引いて玄関先に停められた黒塗りのセンチュリーに向かった。運転手が恭しく後部座席のドアを開ける。
静はまず娘を車に乗せ、自分も乗り込む。できる限りドアに近い位置に身を寄せた。
すぐに暁が隣に座る。ドアが閉められ、密閉された空間に彼の纏う香水の匂いが充満した。
静の鼻腔が、その匂いに混じる微かな山茶花の香りを敏感に捉えた。絢子が愛用している香りだ。息が詰まり、咄嗟に顔を窓の外へ向ける。
車は滑らかに走り出した。暁が静に視線を向け、その冷たい態度に気づいて僅かに眉を顰めた。
彼は静が膝の上に置いていた手に、自身の手を重ねようと伸ばしてきた。指先が彼女の手の甲に触れた瞬間、静は電気に打たれたように激しく手を引いた。その動きはあまりに大きく、静の体は窓ガラスに鈍い音を立ててぶつかった。暁の眼差しが、瞬時に冷え切ったものに変わる。
「何を狂った真似だ」
上位者の不快感を隠そうともしない低い声。静の心臓は恐怖と怒りで激しく鼓動した。
「すみません。少し疲れて、眩暈が…」
静はかろうじて笑みを作り、疲労を言い訳にしてその場を取り繕った。
暁は冷たく鼻を鳴らし、それ以上は追及しなかった。代わりにタブレットを取り出し、仕事に取り掛かる。その横顔が、静には見たこともない他人のように感じられた。
車内は静まり返り、娘の穏やかな寝息だけが聞こえる。窓の外を流れていく夜景を見つめながら、静の瞳に涙が滲んだ。
自宅に戻ると、静はすぐに美晴を抱いて子供部屋へ駆け込んだ。暁を遠く背後に置き去りにする。その足音の速さが、彼女の混乱を物語っていた。
娘を寝かしつけた後、主寝室のバスルームに逃げ込む。ドアに鍵をかけた瞬間、彼女はドアに凭れたまま床に滑り落ちた。
シャワーの温度を最高に設定する。熱湯が体を打ち、暁に触れられた痕跡を洗い流そうとするかのように。
湯気で曇る鏡に映る自分の青白い顔を見つめる。その瞳は絶望から、やがて氷のような決意へと変わっていった。
体を拭き、肌を完全に覆い隠す長袖のパジャマに着替える。深く息を吸い込み、バスルームのドアを開けた。
暁はベッドのヘッドボードに寄りかかって本を読んでいた。物音に気づき、彼女に視線を向ける。その目は、彼女の保守的な寝間着の上を一瞬だけ滑った。
静は彼の視線を避け、ベッドの反対側に回り込んで横になった。彼に背を向け、石のように体を硬くする。
暁は本を置き、メインライトを消した。そして、布団に入ると、長い腕を伸ばして背後から静を抱きしめた。
別の女の匂いが再び鼻をつく。静の胃が痙攣し、彼女は彼の腕を激しく振りほどいて体を起こした。
「いい加減にしろ」
暁は完全に忍耐を失い、体を起こして冷たく警告した。空気中に火薬の匂いが立ち込める。
「胃が痛くて、あなたに移したくないから」
静は歯を食いしばり、そう言い訳をした。枕を抱え、リビングのソファへと向かう。
暁は彼女の決然とした後ろ姿を睨みつけ、苛立たしげに眉間を揉んだ。引き留める声はかけず、代わりに乱暴にベッドへ体を倒した。
暗いリビングのソファに横たわりながら、寝室から聞こえる穏やかな寝息を聞く。静は、この結婚に対する最後の幻想を、完全に断ち切った。
話 3
静は朝の光の中で身を起こし、ソファの上のブランケットを丁寧に畳んだ。そして、キッチンへと向かう。
手際よく卵を焼く。フライパンから跳ねた油が手の甲を刺し、ちりちりとした痛みが走った。しかし、彼女は無表情に鍋を見つめ続ける。
身支度を整えた暁がダイニングに入ってきた。ソファの上のブランケットに一瞥をくれる。眉間に皺が寄ったが、何も言わなかった。
静が朝食を運ぶ。二人はテーブルの両端に座った。ナイフとフォークが皿に当たる音だけが、静寂の中でやけに大きく響いた。
「今夜は本邸で家の用事がある、帰らない」
暁はブラックコーヒーを一口飲み、事務的に告げた。
静はフォークを握る手の関節が白くなる。俯いて、瞳の奥の嘲りを隠した。そして、静かに「わかりました」とだけ答えた。
暁が出て行った後、静は優しい笑顔を浮かべて娘を起こし、幼稚園の制服を着せた。
私立幼稚園の門まで車で送る。娘が元気に走り去っていく後ろ姿を見送ると、静の顔から笑みが消えた。
誰もいない家に帰り着くと、言いようのない虚無感に襲われた。彼女は書斎に入り、内側から鍵をかけた。
金庫を開け、婚前に書き溜めた伝統医学と生物創薬の研究ノートを取り出す。紙はわずかに黄ばんでいた。
そこにびっしりと書き込まれた実験データに指を滑らせる。この結婚のために捨てた誇りを思い出し、目の奥が熱くなった。
夜が訪れる。静は一人でソファに座り、壁の時計を眺めていた。針は深夜十時を指している。
娘の明日の健康診断の書類に、暁の署名が必要なことを思い出した。携帯電話を手に取り、彼のプライベート番号に電話をかける。
長いコール音の後、ようやく電話が繋がった。静が口を開こうとした瞬間、受話器の向こうから甘くか細い声が聞こえた。
『……どなた?』
絢子の含み笑いの声だった。静の心臓が、冷たい手で握り潰されたように縮こまる。
静は携帯電話を強く握りしめた。爪が掌に食い込む。平静を装い、暁に代わるよう要求した。
絢子は軽く笑った。背景から水音が聞こえ、誰かと尋ねる暁のくぐもった声がした。挑発以外の何物でもない。
『暁お兄様、奥様からよ』
絢子はわざとらしく背景に向かって呼びかけた。そして、一方的に電話を切る。無機質な通話終了音が、静の鼓膜を突き刺した。
静の手から力が抜け、携帯電話がカーペットの上に落ちた。画面の微かな光が、彼女の血の気のない顔を照らし出す。
胃が激しく痙攣する。トイレに駆け込み、便器に向かってえずいた。しかし、何も吐き出すことはできない。
冷たい水で何度も顔を洗う。水滴が顎を伝って落ちていく。鏡の中に映っていたのは、哀れな怨婦の姿だった。
静は鏡を強く殴りつけた。鏡は割れず、反動で手の骨が痛む。その痛みが、彼女を完全に覚醒させた。
書斎に戻り、再び研究ノートを開く。その眼差しは、剃刀のように鋭くなっていた。
パソコンを立ち上げ、幾重にもかけられたパスワードを解除し、鷹司ホールディングスの内部データベースにログインする。指がキーボードの上を高速で踊った。
絢子が現在担当している生物創薬プロジェクトの資料を呼び出す。見栄えは良いが中身のないデータを、一目十行で読み進めていく。
静は、トップレベルの専門家としての直感で、そのプロジェクトが抱える二つの致命的な基礎理論の誤りを即座に見つけ出した。彼女の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
その欠陥データをUSBメモリにコピーし、暗号化をかける。USBを引き抜き、強く握りしめた。
子供部屋へ行き、眠っている娘の顔を見つめる。こんな偽りに満ちた家庭で、この子を育てさせるわけにはいかないと、心に誓った。
主寝室に戻り、暁の私物をすべて段ボール箱に放り込む。その動作は乱暴で、決然としていた。
半分空になったクローゼットを見つめ、長く息を吐き出す。まるで、古い繭を破るような解放感があった。
静は書斎の机に向かい、一枚の白い紙を取り出した。
その上に、力強い筆圧で「離婚訴訟」「財産分与」の文字を書き記した。