話 1
静はゆっくりと重い瞼を開けた。
鼻腔に突き刺さるのは消毒液の無機質な匂い。下腹部を走る鈍い痛みが、さっきまで確かに此処に在った命がもう無いのだと静に告げていた。
「茅野さん、終わりましたよ」
看護師が静かな足音で病室に入ってくる。差し出されたのは一枚の術後休養同意書。彼女の視線はあくまで業務的で、余計な感情を挟むことはなかった。
静は震える指でサインペンを握る。真っ白な紙にペン先が触れた瞬間、ぽつりと涙が落ちて署名欄のインクを滲ませた。看護師は小さく溜息をつくと、静寂を破るように壁掛けテレビの電源を入れた。気を紛らわそうという配慮だったのだろう。しかし、その優しさが静の心を抉った。
『速報です!九条グループの九条暁社長が、人気タレントの篠崎麻美子さんと共に、都内の産婦人科から出てくるところをキャッチしました!』
アナウンサーの甲高い声が鼓膜を打つ。静の虚ろな視線が画面に吸い寄せられた。そこには――高級スーツで篠崎麻美子を庇いながら出てくる夫の姿があった。フラッシュの嵐の中、彼は麻美子を自分のジャケットで覆っている。
心臓が氷の手に握り潰されたように収縮した。静はシーツを強く握りしめる。指の関節が白くなるほどに。
「お二人のご関係は? ご結婚も近いのでしょうか?」
記者の質問に九条暁は答えなかった。ただ冷たい表情でボディーガードに記者を押し退けさせ、麻美子をロールスロイスの後部座席へとエスコートする。
胃の奥から何かがせり上がってくる。強烈な吐き気に襲われ、静は身を屈めた。嘔吐しようとしても、空っぽの胃は痙攣するだけで、何も出てこない。
その時だった。枕元のスマートフォンがけたたましく震えた。液晶に浮かび上がった「九条暁」の文字が、死神の宣告のように目に痛い。
静は深く息を吸う。震える声を必死で抑え込みながら、通話ボタンを押した。
「どこにいる」
その声を聞いた瞬間、さっきまで画面の中で見ていた光景――夫が篠崎麻美子を優しく車へと導く姿――が静の脳裏を走馬灯のように駆け巡った。下腹部の傷がズキズキと痛む。熱っぽい身体は鉛のように重い。
「わたし……病院……今、手術を……受けたばかりなの……」
か細く、途切れ途切れの声。それを言うだけで精一杯だった。
電話の向こうから、短い沈黙の後――短く冷たい嘲笑が漏れた。
「……病院?」
暁の声には、驚きも心配も微塵もなかった。ただ純粋な嘲笑と苛立ちだけが込められている。
「それがお前の新しい手口か?」
静が何か言おうと口を開きかけるが、暁は構わず続ける。
「同情を引くためなら手段を選ばない女だ。お前は。そんな芝居、見た瞬間に分かるわ」
鼻で笑う音が受話器越しにはっきりと聞こえてきた。
静の瞳から光が消える。彼女は助けを求めることを諦めた。流産したという事実を、喉の奥に飲み込む。
「病院の位置を送れ。入口に迎えに行くから、そこで待っていろ。今夜は本邸での会食だ。お前一人のせいで九条家の顔に泥を塗ることは許さん」
返事を待たず、一方的に電話は切られた。ツーツーという無機質な音が空っぽの病室に響く。まるで頬を何度も平手打ちされているかのような感覚だった。
静は病院の位置を九条暁に送った。そして、手の背に刺さったままの点滴針を抜いた。ぷくりと血の玉が浮かび上がり、白い床に赤い染みを作る。痛みは感じなかった。
――医師の静止を振り切り、 壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。足が震えて崩れ落ちそうになるのを、奥歯を食い縛ることで堪えた。
洗面所で冷たい水を何度も顔にかける。血の気の引いた顔を、少しでもマシに見せるために。バッグからコンシーラーを取り出し、青白い唇と目の下の隈に塗り重ねていく。それはあまりにも悲しい偽装だった。
清潔なスーツに着替え、静は病室のドアを開けた。下腹部の引き裂かれるような痛みに耐えながら、一歩一歩、エレベーターホールへと向かう。
病院のロビーを出ると、夕暮れの冷たい風が静の薄い身体を突き刺した。小雨が混じり始めた風に、思わず身震いする。
黒のロールスロイス・ファントムが目の前に停まっていた。後部座席の窓が半分下りている。彫刻のように完璧で、冷酷な夫の横顔が見えた。
運転手の井上が車を降りてドアを開ける。静の虚弱な様子を見て何かを言いかけたが、結局は黙って頭を下げた。
静は身を屈めて後部座席に乗り込む。暁から最も遠い位置――ドアに身体をぴったりと押し付けるようにして座った。
「…………チッ」
静の身体から漂う微かな消毒液の匂いに、暁は嫌悪を隠さず眉を顰めた。「病気のふりをするために、わざわざ病院の匂いまでつけてくるとはな。大した女優だ」
静は何も答えなかった。ただ俯いて、両手を下腹部の前で重ねる。完璧な大和撫子としての従順な姿を演じる。その逆らわない態度が、暁の神経を逆撫でした。彼は苛立たしげにシルクのネクタイを乱暴に緩める。
エンジンがかかり、車は九条家の本邸へと滑るように走り出した。息が詰まるような沈黙の中、静は窓の外に視線を移す。頬を伝う涙に気づく者はいなかった。
話 2
ロールスロイスは、広大な敷地を持つ九条家の本邸へと滑り込んだ。枯山水の白砂が敷き詰められた庭の前で、車は静かに停止する。
静がドアを開け、一歩踏み出した、その瞬間。下腹部に走った鋭い痛みで動きが止まった。砂利道に崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。
前を歩いていた暁が立ち止まり、振り返った。その目は氷のように冷たい。手を差し伸べる気配は微塵もなかった。
静は息を吸い込み、滲む冷や汗を無視して背筋を伸ばす。暁から二歩下がった位置を保ちながら、彼の後を追った。それがこの家で妻に求められる体面だった。
長い木の回廊を渡り、灯りの灯る広間へと向かう。障子の向こうから、女たちの楽しげな笑い声が聞こえてきた。
暁が障子を開けると、室内の笑い声がぴたりと止む。主座の隣に座る姑・九条文乃が鋭い視線を静に向けた。小姑の九条玲奈は新しいエルメスのバッグを弄びながら、あからさまな嘲笑を浮かべている。
静は日本の伝統的な作法に従い、畳の上に膝をついた。両手を重ね、深く頭を下げる――土下座に近いほどの丁寧な挨拶だった。
文乃は静の挨拶を無視した。わざとらしく湯呑みを持ち上げ、ゆっくりと茶を啜る。静を冷たい畳の上で三分間も跪かせたままにした。跪く姿勢が下腹部の痛みを増幅させる。静の額にじわりと冷や汗が滲み、身体が微かに震えた。
暁はそんな妻の姿を気にも留めず、自分の席にどかりと腰を下ろす。まるでそれが当然であるかのように。
ようやく文乃が湯呑みを置いた。「遅いじゃないか。九条家の長男の嫁としての自覚が足りないんじゃないのかね」
棘のある声が静を突き刺す。「申し訳ございません」――静はか細い声で謝罪した。虚弱さから声が少し震えてしまう。それを文乃は「覇気のない声で縁起が悪い」と一蹴した。
「そういえば、お兄様。今日のニュース見ましたわ。麻美子お姉様と本当にお似合いでしたのよ」
玲奈がわざと大きな声で割り込んできた。
静は膝の上で和服の裾を強く握りしめる。爪が肉に食い込む痛みで、かろうじて平静を保っていた。
「麻美子さんは優しくて良い子だからね。それに暁の命の恩人でもある。あの子こそが九条家に相応しい嫁だわ」
文乃は娘の言葉に乗り、あからさまに麻美子を褒め称える。そしてその視線はナイフのように静へと突き刺さった。「卑しい手を使って嫁いできたくせに、三年経っても跡継ぎ一人産めない――塩漬けの土地みたいな腹をして」
跡継ぎを産めない――その言葉が静の心を粉々に砕いた。ついさっき失ったばかりの我が子のことを思い出し、呼吸が止まる。
静は無意識に暁を見た。その瞳には僅かながら懇願の色が浮かんでいた。夫に一言でいいから庇ってほしかった。しかし暁は携帯に目を落としていた。その口元には微かな笑みが浮かんでいる。麻美子とメッセージをやり取りしているのは明らかだった。
静の瞳から、最後の光が消えた。彼女は再び深く頭を垂れ、全ての屈辱と痛みを飲み込む。
「これ、麻美子お姉様が未来の甥っ子のためにって買ってくださったんですの。可愛いでしょう?」
玲奈が追い討ちをかけるように、高価なベビー服を取り出した。卵を産まない雌鶏だと、暗に罵っているのだ。
その小さな服を見た途端、静の視界がぐにゃりと歪んだ。胃の奥から吐き気が込み上げてくる。
「うっ…………」
咄嗟に口元を押さえた。嘔吐感を必死に押し殺そうとするが、身体が激しく震える。
「なんて無作法な!」
文乃がテーブルを叩いて激昂した。「長輩の前でそのような汚らわしい真似をするとは。育ちが知れるわ」
「気分が悪いなら出ていけ。座が白ける」
それまで黙っていた暁が、冷たく言い放った。
静は口の中の粘膜を強く噛む。鉄錆の味が広がった。無理矢理吐き気を飲み込み、再びか細い声で謝罪する。
その時だった。廊下から重い足音と、杖が床を打つ音が聞こえてきた。和室の空気が一瞬で張り詰める。
九条家当主――祖父の九条正臣が、執事の吉田に支えられて姿を現した。威厳に満ちた目が室内を睥睨する。全員が姿勢を正し、頭を下げた。静も虚弱な身体に鞭打ち、再び深く身を屈める。
嵐のような非難が止み、代わりに重苦しい静寂が部屋を支配した。
話 3
正臣が主座に腰を下ろすと、執事の吉田が恭しく杖を預かった。彼の鋭い視線は文乃を通り越し、顔面蒼白の静へと注がれる。
「文乃」
正臣は眉を顰め、低い声で言った。「なぜ静を暁から一番遠い末席に座らせている。体裁というものを知らんのか」
文乃の顔色が変わる。「静さんは体調が優れないと仰るので、暁に病でもうつしたらいけませんから」――言い訳がましく答えた。
「フン」
正臣は鼻を鳴らし、杖で畳を強く打った。重く鈍い音が響く。「静、暁の隣へ行け」
有無を言わせぬ命令だった。
静の身体が硬直する。無意識に暁を見ると、彼の目は険しく、顎のラインが硬く引き締められていた。不快感を隠そうともしていない。
しかし当主の命令は絶対だ。静は歯を食いしばり、下腹部の激痛に耐えながら膝を動かす。暁の右隣へとにじり寄る。
静が座った、その瞬間。暁はわざとらしく身体を左に傾け、彼女との距離をさらに開けた。まるで汚物でも見るかのような仕草だった。
やがて夕食が始まった。美しい懐石料理が次々と運ばれてくる。しかし目の前の冷たい刺身を見て、静の胃は再び痙攣した。
「暁」
突然、正臣が口を開いた。「最近のお前はゴシップ誌を賑わせすぎだ。誰が九条家の正妻か、忘れたわけではあるまいな」
暁は箸を置いた。その口元に皮肉な笑みが浮かぶ。「五年前の命の恩に報いているだけです。まさか九条家は恩知らずの集まりだと仰るのですか、お祖父様」
命の恩――その四文字に、静の持つ箸が震え、小皿に当たって乾いた音を立てた。全ての視線が静に集中する。暁の目は嫌悪と侮蔑に満ちていた。
「詭弁を弄するな!」
正臣が怒鳴った。「わしが生きている限り、あの役者風情が九条家の敷居を跨ぐことはない。覚えておけ」
暁の目に暴戻な光が宿る。彼はすっくと立ち上がった。「お祖父様が私を見て不愉快なら、これで失礼します」
正臣の怒声も聞かず、暁は足早に部屋を出て行く。
静は取り残され、進むことも退くこともできなかった。正臣は深く溜息をつき、複雑な目で静を見た。「お前ももう行きなさい。暁の癇癪には…………もう少し我慢してやってくれ」
静は深々と頭を下げた。虚脱しきった身体を引きずり、暁の背中を追って和室を出る。
本邸の玄関を出ると、暁がロールスロイスの傍で煙草を吸っていた。静が近づくと、彼は吸いかけの煙草を灰皿に強く押し付けた。そして静の腕を掴むと、乱暴に車の中へ押し込む。
「爺さんを味方につけたつもりか」
車内で暁は静の顎を掴み、無理矢理顔を上げさせた。「思い上がるなよ」
静は赤い目で彼を見上げた。「何も言っていません。お祖父様を利用しようなんて、思ってもいません」
虚弱な声での弁明は、暁には届かない。彼は静の顔を乱暴に振り払い、運転手に命じた。「一番速く帰れ」
高級マンションに戻る。静が玄関で靴を脱ごうとした、その瞬間――背後から強い力で壁に押し付けられた。
「きゃっ!」
下腹部の傷に激痛が走る。冷や汗がどっと噴き出した。
「そんなに九条の奥様の座が欲しいか」
暁は怒れる獣のように、静のスーツを破りにかかった。「ならば妻としての義務を果たせ」
「やめて…………!今日は本当に…………だめ…………!」
静は恐怖に目を見開き、必死に抵抗した。しかしその抵抗は暁にとってただの媚態にしか見えない。彼は静の両腕を頭上で片手で押さえつけ、もう片方の手でスカートを引き裂いた。
――前戯など、あるはずもなかった。 懲罰的な暴力が静を襲う。
「あああああっ!」
静の悲鳴が迸り、涙が堰を切ったように溢れ出した。屈辱と痛みと絶望。静は目を閉じ、唇を噛み締める。身体が壊れた人形のように、されるがままになっていた。
どれほどの時間が経っただろうか。暁が静から身を引いたとき、彼女の下腹部からは新しい血がシーツを染めていた。しかし彼はそれを見て見ぬふりをした。
「今夜の見事な演技への褒美だ」
数枚の万札を床に倒れる彼女の上に投げつけ、冷たく言い放つ。そして浴室へと向かった。
静は冷たい床の上で、身動き一つできなかった。