2

ロールスロイスは、広大な敷地を持つ九条家の本邸へと滑り込んだ。枯山水の白砂が敷き詰められた庭の前で、車は静かに停止する。

静がドアを開け、一歩踏み出した、その瞬間。下腹部に走った鋭い痛みで動きが止まった。砂利道に崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。

前を歩いていた暁が立ち止まり、振り返った。その目は氷のように冷たい。手を差し伸べる気配は微塵もなかった。

静は息を吸い込み、滲む冷や汗を無視して背筋を伸ばす。暁から二歩下がった位置を保ちながら、彼の後を追った。それがこの家で妻に求められる体面だった。

長い木の回廊を渡り、灯りの灯る広間へと向かう。障子の向こうから、女たちの楽しげな笑い声が聞こえてきた。

暁が障子を開けると、室内の笑い声がぴたりと止む。主座の隣に座る姑・九条文乃が鋭い視線を静に向けた。小姑の九条玲奈は新しいエルメスのバッグを弄びながら、あからさまな嘲笑を浮かべている。

静は日本の伝統的な作法に従い、畳の上に膝をついた。両手を重ね、深く頭を下げる――土下座に近いほどの丁寧な挨拶だった。

文乃は静の挨拶を無視した。わざとらしく湯呑みを持ち上げ、ゆっくりと茶を啜る。静を冷たい畳の上で三分間も跪かせたままにした。跪く姿勢が下腹部の痛みを増幅させる。静の額にじわりと冷や汗が滲み、身体が微かに震えた。

暁はそんな妻の姿を気にも留めず、自分の席にどかりと腰を下ろす。まるでそれが当然であるかのように。

ようやく文乃が湯呑みを置いた。「遅いじゃないか。九条家の長男の嫁としての自覚が足りないんじゃないのかね」

棘のある声が静を突き刺す。「申し訳ございません」――静はか細い声で謝罪した。虚弱さから声が少し震えてしまう。それを文乃は「覇気のない声で縁起が悪い」と一蹴した。

「そういえば、お兄様。今日のニュース見ましたわ。麻美子お姉様と本当にお似合いでしたのよ」

玲奈がわざと大きな声で割り込んできた。

静は膝の上で和服の裾を強く握りしめる。爪が肉に食い込む痛みで、かろうじて平静を保っていた。

「麻美子さんは優しくて良い子だからね。それに暁の命の恩人でもある。あの子こそが九条家に相応しい嫁だわ」

文乃は娘の言葉に乗り、あからさまに麻美子を褒め称える。そしてその視線はナイフのように静へと突き刺さった。「卑しい手を使って嫁いできたくせに、三年経っても跡継ぎ一人産めない――塩漬けの土地みたいな腹をして」

跡継ぎを産めない――その言葉が静の心を粉々に砕いた。ついさっき失ったばかりの我が子のことを思い出し、呼吸が止まる。

静は無意識に暁を見た。その瞳には僅かながら懇願の色が浮かんでいた。夫に一言でいいから庇ってほしかった。しかし暁は携帯に目を落としていた。その口元には微かな笑みが浮かんでいる。麻美子とメッセージをやり取りしているのは明らかだった。

静の瞳から、最後の光が消えた。彼女は再び深く頭を垂れ、全ての屈辱と痛みを飲み込む。

「これ、麻美子お姉様が未来の甥っ子のためにって買ってくださったんですの。可愛いでしょう?」

玲奈が追い討ちをかけるように、高価なベビー服を取り出した。卵を産まない雌鶏だと、暗に罵っているのだ。

その小さな服を見た途端、静の視界がぐにゃりと歪んだ。胃の奥から吐き気が込み上げてくる。

「うっ…………」

咄嗟に口元を押さえた。嘔吐感を必死に押し殺そうとするが、身体が激しく震える。

「なんて無作法な!」

文乃がテーブルを叩いて激昂した。「長輩の前でそのような汚らわしい真似をするとは。育ちが知れるわ」

「気分が悪いなら出ていけ。座が白ける」

それまで黙っていた暁が、冷たく言い放った。

静は口の中の粘膜を強く噛む。鉄錆の味が広がった。無理矢理吐き気を飲み込み、再びか細い声で謝罪する。

その時だった。廊下から重い足音と、杖が床を打つ音が聞こえてきた。和室の空気が一瞬で張り詰める。

九条家当主――祖父の九条正臣が、執事の吉田に支えられて姿を現した。威厳に満ちた目が室内を睥睨する。全員が姿勢を正し、頭を下げた。静も虚弱な身体に鞭打ち、再び深く身を屈める。

嵐のような非難が止み、代わりに重苦しい静寂が部屋を支配した。

3

正臣が主座に腰を下ろすと、執事の吉田が恭しく杖を預かった。彼の鋭い視線は文乃を通り越し、顔面蒼白の静へと注がれる。

「文乃」

正臣は眉を顰め、低い声で言った。「なぜ静を暁から一番遠い末席に座らせている。体裁というものを知らんのか」

文乃の顔色が変わる。「静さんは体調が優れないと仰るので、暁に病でもうつしたらいけませんから」――言い訳がましく答えた。

「フン」

正臣は鼻を鳴らし、杖で畳を強く打った。重く鈍い音が響く。「静、暁の隣へ行け」

有無を言わせぬ命令だった。

静の身体が硬直する。無意識に暁を見ると、彼の目は険しく、顎のラインが硬く引き締められていた。不快感を隠そうともしていない。

しかし当主の命令は絶対だ。静は歯を食いしばり、下腹部の激痛に耐えながら膝を動かす。暁の右隣へとにじり寄る。

静が座った、その瞬間。暁はわざとらしく身体を左に傾け、彼女との距離をさらに開けた。まるで汚物でも見るかのような仕草だった。

やがて夕食が始まった。美しい懐石料理が次々と運ばれてくる。しかし目の前の冷たい刺身を見て、静の胃は再び痙攣した。

「暁」

突然、正臣が口を開いた。「最近のお前はゴシップ誌を賑わせすぎだ。誰が九条家の正妻か、忘れたわけではあるまいな」

暁は箸を置いた。その口元に皮肉な笑みが浮かぶ。「五年前の命の恩に報いているだけです。まさか九条家は恩知らずの集まりだと仰るのですか、お祖父様」

命の恩――その四文字に、静の持つ箸が震え、小皿に当たって乾いた音を立てた。全ての視線が静に集中する。暁の目は嫌悪と侮蔑に満ちていた。

「詭弁を弄するな!」

正臣が怒鳴った。「わしが生きている限り、あの役者風情が九条家の敷居を跨ぐことはない。覚えておけ」

暁の目に暴戻な光が宿る。彼はすっくと立ち上がった。「お祖父様が私を見て不愉快なら、これで失礼します」

正臣の怒声も聞かず、暁は足早に部屋を出て行く。

静は取り残され、進むことも退くこともできなかった。正臣は深く溜息をつき、複雑な目で静を見た。「お前ももう行きなさい。暁の癇癪には…………もう少し我慢してやってくれ」

静は深々と頭を下げた。虚脱しきった身体を引きずり、暁の背中を追って和室を出る。

本邸の玄関を出ると、暁がロールスロイスの傍で煙草を吸っていた。静が近づくと、彼は吸いかけの煙草を灰皿に強く押し付けた。そして静の腕を掴むと、乱暴に車の中へ押し込む。

「爺さんを味方につけたつもりか」

車内で暁は静の顎を掴み、無理矢理顔を上げさせた。「思い上がるなよ」

静は赤い目で彼を見上げた。「何も言っていません。お祖父様を利用しようなんて、思ってもいません」

虚弱な声での弁明は、暁には届かない。彼は静の顔を乱暴に振り払い、運転手に命じた。「一番速く帰れ」

高級マンションに戻る。静が玄関で靴を脱ごうとした、その瞬間――背後から強い力で壁に押し付けられた。

「きゃっ!」

下腹部の傷に激痛が走る。冷や汗がどっと噴き出した。

「そんなに九条の奥様の座が欲しいか」

暁は怒れる獣のように、静のスーツを破りにかかった。「ならば妻としての義務を果たせ」

「やめて…………!今日は本当に…………だめ…………!」

静は恐怖に目を見開き、必死に抵抗した。しかしその抵抗は暁にとってただの媚態にしか見えない。彼は静の両腕を頭上で片手で押さえつけ、もう片方の手でスカートを引き裂いた。

――前戯など、あるはずもなかった。 懲罰的な暴力が静を襲う。

「あああああっ!」

静の悲鳴が迸り、涙が堰を切ったように溢れ出した。屈辱と痛みと絶望。静は目を閉じ、唇を噛み締める。身体が壊れた人形のように、されるがままになっていた。

どれほどの時間が経っただろうか。暁が静から身を引いたとき、彼女の下腹部からは新しい血がシーツを染めていた。しかし彼はそれを見て見ぬふりをした。

「今夜の見事な演技への褒美だ」

数枚の万札を床に倒れる彼女の上に投げつけ、冷たく言い放つ。そして浴室へと向かった。

静は冷たい床の上で、身動き一つできなかった。

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愛を諦めた妻:冷酷な財閥夫の遅すぎる執着

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