話 1
「奥様、検査結果です」
静は差し出された薄い封筒を受け取った。指先が氷のように冷たい。自分の指ではないみたいだ。
「末期の胃がんです。残念ながら手の施しようがありません」
医師の同情的な声が厚いガラス越しのように遠く聞こえる。静はこわばった唇でありがとうございますとだけ言った。声が震えなかったのは奇跡だった。
診察室を出る。ふらつく足で一歩踏み出すと、胃の奥が焼け付くように痙攣した。白い壁に手をついて、なんとか倒れるのをこらえる。
消毒液の匂いが鼻をつく。その無機質な清潔さが、自分の内側の腐敗をあざ笑っているようだった。
バッグの中のスマートフォンが震えている。革越しに太ももを打つ振動が、心臓を直接叩いているかのように不気味だ。
画面が光る。
「高橋健太」
その三文字が、まるで死神の宣告のように点滅していた。
スライドして通話ボタンを押す。耳に押し当てる前に、夫の怒りに満ちた声が爆発した。
「どこをほっつき歩いているんだ!今すぐ港区の屋敷に戻ってこい!」
「……」
「桜子の誕生日パーティーをすっぽかすなんて、どういうつもりだ。あの子がどれだけ傷ついたと思ってる!」
違う。今日は私の誕生日でもあるのに。
その言葉は喉の奥で塊になって、音にはならなかった。
「すぐに戻って桜子に謝れ。いいな!」
静が何かを言う前に、通話は一方的に切られた。ツーツーという無機質な音が鼓膜を打つ。
画面に表示されたままの、健太とのツーショット写真。三年前の結婚式で撮ったものだ。幸せそうに微笑む自分が、まるで知らない他人のように見えた。
写真の中の自分は、これから始まる地獄を知らない。
胃の痛みが再び襲ってくる。静は壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。冷たいリノリウムの床が、薄いシルクのワンピース越しに体温を奪っていく。
診断書を握りしめた。紙の端が指の腹に食い込み、じわりと血が滲む。だが、その痛みさえ感じなかった。
心臓が凍りついたみたいだ。
どれくらいそうしていただろう。静は壁を支えに、ゆっくりと立ち上がった。唇を噛み切るほどの力で締め、意識を保つ。
ここで倒れるわけにはいかない。
病院の自動ドアが開く。外は冷たい雨が降っていた。東京の空は、彼女の心と同じように重く垂れ込めている。
高価なシルクのトレンチコートが雨に濡れるのも構わず、静はタクシーを止めた。
「どちらまで?」
運転手がバックミラー越しに彼女の蒼白な顔を見て、訝しげに尋ねる。
「港区高橋邸まで」
冷たく言い放つと、静は窓の外に視線を投げた。流れていく都会のネオンが、涙で滲んで歪んで見える。
この三年間。まるで薄氷の上を歩くような毎日だった。井上家の養女として高橋家に嫁いだ自分は、常に息を潜めて生きてきた。健太の機嫌を損ねないように。彼の愛する妹、桜子様の邪魔にならないように。
だが、それももう終わりだ。
余命三ヶ月。その数字が、静を縛り付けていたすべての鎖を断ち切った。
タクシーが高橋邸の重厚な門の前に停まる。静は慣れた手つきで電子錠を操作し、中へと入った。
玄関のドアは半開きになっていた。そこから漏れるシャンデリアの眩い光に、静は目を細める。
リビングの革張りのソファに、高橋健太が座っていた。静の気配に気づき、ゆっくりとこちらを振り返る。その目は罪人を裁くかのように冷たく昏い。
「おかえり。ずいぶん遅かったじゃないか」
健太が立ち上がり、一歩、また一歩と近づいてくる。その巨体が生み出す圧迫感に、静は息が詰まりそうになる。
「桜子のパーティーに来なかった理由を、聞かせてもらおうか」
「病院に行っていました」
静がようやく絞り出した声は、健太の怒りの前ではあまりにも無力だった。
「病院?またその手か。桜子より自分に関心を向けさせたいだけの、見え透いた嘘だ」
健太は静の腕を掴んだ。骨が軋むほどの力だった。
「今すぐ桜子に電話して謝罪しろ。お前のくだらない嫉妬のせいで、あの子がどれだけ悲しんだか」
腕の激痛と、胃の奥で疼く鈍い痛みが混じり合う。静は顔を上げた。間近にある夫の顔は憎悪で歪んでいる。
この男は一度も、自分を信じたことがない。
その事実が冷たい刃となって、静の心を抉った。
「離して」
「なんだと?」
「離してと言っているの」
静はありったけの力で健太の手を振り払った。よろめいた体が、背後の大理石のローテーブルにぶつかる。腰に走る鈍い衝撃に、思わず歯を食いしばった。
健太は、静の反抗が信じられないというように目を見開いている。
「お前、俺に逆らうのか?」
再び伸ばされようとした手を避けるように、静はバッグから診断書の入った封筒を取り出した。
それを見た健太の口元に、侮蔑的な笑みが浮かぶ。
「偽造した診断書まで用意するとはな。大した女優だ」
その言葉が、静の中に残っていた最後の未練を完全に断ち切った。
彼女は封筒から診断書を取り出した。だが、健太に渡すことはしなかった。
両手で紙の端を掴む。
びりびりびり。
乾いた破裂音が、静まり返ったリビングに響き渡った。
健太が息を呑むのがわかった。彼の目に、初めて見る種類の動揺が浮かんでいる。
静は引き裂いた紙片を宙に放った。白い雪のように舞い落ちる紙が、二人を隔てる境界線になる。
「謝らないわ」
静の唇から、凍てつくような声が漏れた。
「絶対に、あの子には謝らない」
「この…!」
健太の怒りが頂点に達した。彼の手が振り上げられる。
静は避けなかった。ただ、氷のような瞳で真正面から彼を見据えた。
健太の手は空中でぴたりと止まった。静の瞳の奥にある、底なしの絶望と決意に射竦められたように。
静は動かなくなった健太の横を通り過ぎ、階段へと向かう。その足取りにもう迷いはなかった。
「待て!副カードを止めてやる!そうなってもいいのか!」
背後から健太の怒声が飛んでくる。
静は足を止めなかった。薄く、しかし決して折れない背中だけを彼に残して。
自室のドアを開け、背後で閉める。鍵をかける音はしなかった。もう必要ないからだ。
真っ暗な部屋の中、静はドアに背を預けて床に座り込んだ。
そして笑った。
闇の中で、静かに、確かに。新しい自分が目覚める音がした。
話 2
高橋家の寝室は、静の私物で溢れていた。だが、そのどれもが彼女自身の選択ではない。健太が選び、与えたものだ。
静はクローゼットの奥から、嫁ぐ時に持ってきた唯一の私物である、くたびれた帆布のトートバッグを引きずり出した。
中に入れるものは少ない。下着を数枚と、古いセーター。それだけを無造作に詰め込む。
階下からはまだ健太の怒鳴り声が聞こえていたが、もう静の心には届かなかった。
静かに階段を下り、玄関のドアを開ける。振り返ることはしなかった。
降りしきる雨の中、再びタクシーを拾う。行き先は世田谷区にある井上家。彼女が十八歳まで過ごした、養父母の家だ。
タクシーが閑静な住宅街の一角で停まる。静は慣れた足取りで、雨に濡れた石畳のアプローチを進んだ。
見慣れた和風の門構え。かつては安らぎの場所だと信じていた。
インターホンを押す。しばらくして、家政婦の気怠げな声が応えた後、重い門がゆっくりと開いた。
手入れの行き届いた庭を抜け、玄関の引き戸を開ける。
客間では、養父母である井上崇と文江が楽しげに茶を飲んでいた。静の姿を認めると、二人の動きがぴたりと止まる。
「まあ、静。どうしたの、こんな時間に」
養母の文江が湯呑を置いた。その声には、歓迎の色など微塵もない。
「手ぶらで帰ってくるなんて。健太さんと喧嘩でもしたの?」
文江の棘のある言葉を無視して、静は客間の奥にある仏壇へと向かった。そこには、彼女を産んですぐに亡くなった実の母親の位牌が置かれている。
静が求めているのは、その引き出しに仕舞われている、母の形見のネックレスだけだった。
引き出しに手をかけた瞬間、鋭い痛みが腕に走った。
「何をしているの!」
文江が鬼の形相で静の腕を掴んでいた。その爪が、静の柔らかな皮膚に深く食い込む。
「人の家に勝手に入ってきて、泥棒みたいな真似をするんじゃないわよ!」
「離してください、お義母様。これは私の母のものです」
静が身をよじって抵抗すると、文江の怒りが爆発した。
パァン!
乾いた音が部屋に響き渡った。
静の視界がぐらりと揺れる。左の頬が燃えるように熱い。口の中に鉄の味が広がった。
衝撃で畳の上に崩れ落ちる。その拍子に、胃の奥が再び針で刺されたように痛んだ。
「文江、やめなさい。そんな、はしたない娘のために手を汚すことはない」
主座に座っていた養父の崇が冷ややかに言った。その声には、娘を案じる響きは一切ない。ただ、面倒なものが転がり込んできたという苛立ちだけが滲んでいた。
その時、二階からわざとらしい悲鳴が聞こえた。
「お母様!お姉様!どうしたんですか!」
高価なシルクのパジャマに身を包んだ井上桜子が、階段を駆け下りてくる。
桜子は倒れている静には目もくれず、文江の元へ駆け寄った。
「お母様、大丈夫?手が痛くありませんこと?」
そう言って文江の、平手打ちをした手を自分の両手で優しく包み込む。
静は顔を上げた。乱れた髪の隙間から桜子の顔が見える。心配そうな表情の下に隠された、微かな得意の色を、静は見逃さなかった。
「お姉様…」
桜子が今度は静の方を向いた。その大きな瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。
「どうしてお父様とお母様を怒らせるようなことばかりするの?私が健太さんといるのが、そんなに気に入らない?」
「桜子、あなたのせいじゃないのよ」
文江はすぐに桜子を背中にかばい、静を指差して罵った。
「この子は恩知らずなのよ!井上家が拾ってやった恩も忘れて、高橋家に嫁いだ途端に私たちをないがしろにして!本当に育て方を間違えたわ!」
静は手の甲で唇の端から流れた血を拭った。そして畳に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。その背筋は驚くほどまっすぐに伸びていた。
いつもなら、ここで泣いて許しを乞うはずだった。だが、今の静にその選択肢はなかった。
彼女はまるで初めて見る他人を観察するかのように、冷たい視線で三人を見回した。
その目に射抜かれて、崇はたじろいだ。彼は動揺を隠すように、わざとらしく湯呑を強く置いた。
「静!その目はなんだ!この家から勘当されたいのか!さっさと土下座して謝らんか!」
勘当。
その言葉を聞いた瞬間、静の心に湧き上がったのは恐怖ではなく、奇妙なほどの解放感だった。
彼女の唇に自嘲的な笑みが浮かぶ。
「この六年、私は一体何だったのでしょうね」
静の声は掠れていた。だが、その響きは部屋の隅々まで届くほど強く鋭かった。
「お姉様、何を言っているの……?怖い……」
桜子が怯えた小動物のように震え、文江の腕の中に顔を埋める。
その完璧な演技が、文江の最後の理性を焼き切った。
「このっ……!」
文江はテーブルの上の湯呑を掴むと、躊躇なく静に向かって投げつけた。
静は咄嗟に身をかわす。湯呑は彼女のすぐ横の柱に当たって砕け散り、まだ熱い緑茶が畳の上に染みを作った。
割れた陶器の破片が、静の足元に散らばる。
それを見下ろしながら、静は思った。
ああ、なんて滑稽なのだろう。
あと三ヶ月しか生きられないというのに、自分はこんな茶番に付き合っている。
静は一度、固く目を閉じた。そしてゆっくりと開く。
その瞳から、親というものに対する最後の幻想が完全に消え失せていた。
彼女は怒り狂う文江と、冷笑を浮かべる崇、そしてその陰でほくそ笑む桜子を完全に無視した。
再び仏壇に向かう。もう誰も彼女を止めようとはしなかった。
引き出しを開け、中から古びた銀のチェーンネックレスを取り出す。
それを強く、強く掌の中に握りしめた。金属の冷たさが、彼女に最後の力を与えてくれる。
静は振り返った。
そして、まだ母親の腕の中で震えるふりをしている桜子を、上から下まで値踏みするように見下ろした。その目には、もはや隠そうともしない剥き出しの軽蔑が浮かんでいた。
その視線に、桜子の背筋がぞくりと凍りついた。彼女は無意識のうちに一歩後ずさる。
静は何も言わず、帆布のバッグを肩にかけ直し、毅然とした足取りで玄関へと向かった。
話 3
静が玄関で靴を履き替えようとした、その時だった。
背後から、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
「お姉様、待って!」
桜子が静の行く手を阻むように、ドアの前に立ちはだかった。その顔には、先ほどと同じ偽りの涙が浮かんでいる。
「行かないで。ちゃんと話し合えば、きっと……」
桜子の手が、静の袖を掴もうと伸びてくる。
静は汚らわしいものでも避けるかのように半歩下がり、その手をかわした。
「そのくだらない芝居、もうやめたら?」
冷たい声だった。
その瞬間、桜子の瞳の奥に一瞬だけ毒々しい光が宿った。彼女は庭の外に目を向けた。見慣れた高級車のヘッドライトが一瞬門柱を照らすのを、その目は確かに捉えていた。
桜子の口元に、誰にも気づかれないほどの微かな笑みが浮かぶ。
次の瞬間。
「きゃあ!」
桜子は甲高い悲鳴を上げた。まるで何者かに突き飛ばされたかのように、その華奢な体が大きく後ろにのけぞる。
静は彼女に指一本触れていなかった。
だが、静の目の前で桜子の体はバランスを失い、玄関の式台の角にわざとらしく頭をぶつけながら、派手に倒れ込んだ。
ゴン、と鈍い音がする。
桜子の額から、見る間に赤い血が滲み出した。
キーッ!
耳障りなブレーキ音と共に、玄関のドアが乱暴に開け放たれた。
「桜子!」
冷たい夜気をまとった高橋健太が飛び込んできた。
彼の視線は真っ先に、床に倒れ血を流して泣きじゃくる桜子の姿を捉えた。健太の瞳孔がカッと開く。
「桜子、しっかりしろ!」
怒れる獣のように駆け寄ると、健太は桜子をその逞しい腕の中に抱きかかえた。
「健太さん…」
桜子は健太の胸に顔をうずめ、震える指で静を指差した。
「ごめんなさい……お姉様はわざとじゃないの……私が引き止めたから……」
その、いかにも庇っているかのような言い草が、健太の怒りの導火線に火をつけた。
彼は燃えるような目で静を睨みつけた。
「九条静!」
健太は立ち上がると、大股で静の前に詰め寄り、その肩を力任せに突き飛ばした。
「ぐっ……!」
ただでさえ衰弱していた静の体は、いとも簡単にバランスを失い、背中から木製のドアに叩きつけられた。
背骨に走る激痛が胃の痙攣を誘発する。冷や汗がどっと背中を濡らした。
「病気の妹に手を上げるなんて、お前は鬼か!」
健太が憎々しげに吐き捨てる。
物音を聞きつけて客間から出てきた井上夫妻も、桜子の額の血を見て顔色を変えた。
「なんてことをするの!この人殺し!」
文江が金切り声を上げて静を罵る。
「警察を呼んでやるわ!刑務所に入って自分の罪を反省するがいい!」
四方八方から突き刺さる非難の言葉。
静は痛む胃を押さえながら、ゆっくりと背筋を伸ばした。喉の奥まで込み上げてきた血の味を、ぐっと飲み下す。
彼女は見た。
心底から桜子を心配する目で抱きしめる夫の姿を。
憎悪と侮蔑の目で自分を睨みつける養父母の姿を。
その光景を、静は目に焼き付けた。
そしてふと笑った。
その笑い声はひどく乾いていて、場違いなほど静かに響いた。あまりの異様さに、三人の罵声がぴたりと止まる。
静は笑みを消した。その目はまるで死んだ魚を見るかのように冷え切っている。
彼女は肩にかけていた帆布のバッグから、一本のカッターナイフを取り出した。
「静!お前、何をしようと……!」
健太が咄嗟に桜子を背後にかばう。
静は彼らを一瞥もせず、カッターの刃を押し出した。そして自分が着ているトレンチコートの胸元にある、一つのボタンに刃を当てる。
それは井上家の家紋が刺繍された、特注のボタンだった。静がこの家の養女であることの、唯一の証。
ザクリ。
糸が切れる乾いた音がした。
コロコロとボタンが床に転がり落ちる。
「ただいまをもちまして」
静の声は氷のように冷たく、その場にいる全ての者の鼓膜を貫いた。
「私、九条静は、井上家との縁を未来永劫、断ち切らせていただきます」
「なっ…!この恩知らずが!」
養父の崇がわなわなと震えながら怒鳴る。
「この家を出ていけば、お前など路頭に迷うだけだぞ!」
静はカッターナイフを、カシャンと音を立てて玄関の靴箱の上に置いた。それは全ての退路を断ち切る音だった。
彼女は健太を見た。その瞳には、かつて夫に向けられていた愛情のかけらも残っていない。ただ、底なしの冷たさと、深い、深い倦怠があるだけだった。
「そんなに桜子が大事なら」
静は一言、一言区切るように言った。
「私が二人を成仏させてあげる」
「何を言っている……?」
健太の眉間に深い皺が刻まれる。静の言葉の意味を、彼は測りかねていた。
静は答える代わりに、帆布のバッグに再び手を入れた。そして中から一枚の折り畳まれた書類を取り出す。
それを健太の胸に、叩きつけるように投げた。
ひらりと舞い落ちた紙が床に転がる。
一番上に書かれた、黒々としたゴシック体の文字が健太の目に突き刺さった。
「離婚届」
「な……」
健太の目が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。
この、いつも従順で、何を言っても黙って耐えていた静が、自ら離婚を切り出すなど、彼は想像すらしたことがなかった。