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静が玄関で靴を履き替えようとした、その時だった。

背後から、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。

「お姉様、待って!」

桜子が静の行く手を阻むように、ドアの前に立ちはだかった。その顔には、先ほどと同じ偽りの涙が浮かんでいる。

「行かないで。ちゃんと話し合えば、きっと……」

桜子の手が、静の袖を掴もうと伸びてくる。

静は汚らわしいものでも避けるかのように半歩下がり、その手をかわした。

「そのくだらない芝居、もうやめたら?」

冷たい声だった。

その瞬間、桜子の瞳の奥に一瞬だけ毒々しい光が宿った。彼女は庭の外に目を向けた。見慣れた高級車のヘッドライトが一瞬門柱を照らすのを、その目は確かに捉えていた。

桜子の口元に、誰にも気づかれないほどの微かな笑みが浮かぶ。

次の瞬間。

「きゃあ!」

桜子は甲高い悲鳴を上げた。まるで何者かに突き飛ばされたかのように、その華奢な体が大きく後ろにのけぞる。

静は彼女に指一本触れていなかった。

だが、静の目の前で桜子の体はバランスを失い、玄関の式台の角にわざとらしく頭をぶつけながら、派手に倒れ込んだ。

ゴン、と鈍い音がする。

桜子の額から、見る間に赤い血が滲み出した。

キーッ!

耳障りなブレーキ音と共に、玄関のドアが乱暴に開け放たれた。

「桜子!」

冷たい夜気をまとった高橋健太が飛び込んできた。

彼の視線は真っ先に、床に倒れ血を流して泣きじゃくる桜子の姿を捉えた。健太の瞳孔がカッと開く。

「桜子、しっかりしろ!」

怒れる獣のように駆け寄ると、健太は桜子をその逞しい腕の中に抱きかかえた。

「健太さん…」

桜子は健太の胸に顔をうずめ、震える指で静を指差した。

「ごめんなさい……お姉様はわざとじゃないの……私が引き止めたから……」

その、いかにも庇っているかのような言い草が、健太の怒りの導火線に火をつけた。

彼は燃えるような目で静を睨みつけた。

「九条静!」

健太は立ち上がると、大股で静の前に詰め寄り、その肩を力任せに突き飛ばした。

「ぐっ……!」

ただでさえ衰弱していた静の体は、いとも簡単にバランスを失い、背中から木製のドアに叩きつけられた。

背骨に走る激痛が胃の痙攣を誘発する。冷や汗がどっと背中を濡らした。

「病気の妹に手を上げるなんて、お前は鬼か!」

健太が憎々しげに吐き捨てる。

物音を聞きつけて客間から出てきた井上夫妻も、桜子の額の血を見て顔色を変えた。

「なんてことをするの!この人殺し!」

文江が金切り声を上げて静を罵る。

「警察を呼んでやるわ!刑務所に入って自分の罪を反省するがいい!」

四方八方から突き刺さる非難の言葉。

静は痛む胃を押さえながら、ゆっくりと背筋を伸ばした。喉の奥まで込み上げてきた血の味を、ぐっと飲み下す。

彼女は見た。

心底から桜子を心配する目で抱きしめる夫の姿を。

憎悪と侮蔑の目で自分を睨みつける養父母の姿を。

その光景を、静は目に焼き付けた。

そしてふと笑った。

その笑い声はひどく乾いていて、場違いなほど静かに響いた。あまりの異様さに、三人の罵声がぴたりと止まる。

静は笑みを消した。その目はまるで死んだ魚を見るかのように冷え切っている。

彼女は肩にかけていた帆布のバッグから、一本のカッターナイフを取り出した。

「静!お前、何をしようと……!」

健太が咄嗟に桜子を背後にかばう。

静は彼らを一瞥もせず、カッターの刃を押し出した。そして自分が着ているトレンチコートの胸元にある、一つのボタンに刃を当てる。

それは井上家の家紋が刺繍された、特注のボタンだった。静がこの家の養女であることの、唯一の証。

ザクリ。

糸が切れる乾いた音がした。

コロコロとボタンが床に転がり落ちる。

「ただいまをもちまして」

静の声は氷のように冷たく、その場にいる全ての者の鼓膜を貫いた。

「私、九条静は、井上家との縁を未来永劫、断ち切らせていただきます」

「なっ…!この恩知らずが!」

養父の崇がわなわなと震えながら怒鳴る。

「この家を出ていけば、お前など路頭に迷うだけだぞ!」

静はカッターナイフを、カシャンと音を立てて玄関の靴箱の上に置いた。それは全ての退路を断ち切る音だった。

彼女は健太を見た。その瞳には、かつて夫に向けられていた愛情のかけらも残っていない。ただ、底なしの冷たさと、深い、深い倦怠があるだけだった。

「そんなに桜子が大事なら」

静は一言、一言区切るように言った。

「私が二人を成仏させてあげる」

「何を言っている……?」

健太の眉間に深い皺が刻まれる。静の言葉の意味を、彼は測りかねていた。

静は答える代わりに、帆布のバッグに再び手を入れた。そして中から一枚の折り畳まれた書類を取り出す。

それを健太の胸に、叩きつけるように投げた。

ひらりと舞い落ちた紙が床に転がる。

一番上に書かれた、黒々としたゴシック体の文字が健太の目に突き刺さった。

「離婚届」

「な……」

健太の目が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。

この、いつも従順で、何を言っても黙って耐えていた静が、自ら離婚を切り出すなど、彼は想像すらしたことがなかった。

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余命三ヶ月の妻、冷酷な総帥の溺愛に甘える

第3話
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