話 1
藤堂家の屋敷
告別式の会場は屋敷の広間に設けられ、祭壇には白い菊が静かに供えられていた。空気中には線香の香りが漂っている。
藤堂柚は座布団の上に跪いていた。両脚はとうに痺れ、感覚を失っている。
だが、彼女はこの場を離れるつもりはなかった。
遺影の中の母は、穏やかに微笑んでいる。
それは去年の秋に撮られた写真だった。
当時、母は三度目の心臓手術を終えたばかりだった。医師は、適切なドナーが見つかり心臓移植さえできれば、母は健常者と同じように生活できるだろうと言った。
柚は、母と自分にはまだ長い時間があるのだと信じていた。
まさか、母がその心臓を待つことなく、先に逝ってしまうとは思いもしなかった。
彼女は1人で会場を設営し、1人で訃報を書き、1人で親族や友人に連絡した。
夜明け前から働き詰めだったが、一滴の涙も流さなかった。
今、会場の内外には弔問に訪れた人々が少なくない。
彼らのひそひそ話が、耳障りな虫の羽音のようにまとわりつく。
「どうして彼女1人だけなの? 前にゴシップ誌で大統領と一緒の写真が撮られていたじゃない?」
「私たちみたいな家柄が、あんな大物と関わりを持とうなんて無理よ。 大統領の心にはもう誰かいるのよ。今日だって、わざわざ空港まで迎えに行ったってニュースになってたわ!」
「まあ、一体どこの女が大統領の心を射止めたのかしら!」「初恋の相手だって噂よ」
「今日、彼女を迎えるために空港は貸し切りだったんですって。 盛大なものだったらしいわ……」
柚はそれらのひそひそ話に耳を貸さず、香炉に新しい線香をくべ続けた。
その時、彼女のスマートフォンの通知音が鳴り、画面が明るくなった。
ホットニュースのプッシュ通知が飛び込んできた。
「【衝撃】大統領、空港で謎の美女をバラの花束で出迎えか」
その刺すような見出しの文字に、柚の瞳孔が鋭く収縮した。
彼女はニュースを開いた。
写真に写るその比類なき端正な顔は、まさしく彼女の夫――長谷川彰だった。
彼は仕立ての良い黒いコートをまとい、片手にはバラの花束を抱え、もう一方の手は隣に立つ女性の肩に軽く添えられている。
撮影アングルのせいで、2人はまるで熱く抱き合っているかのように見えた。
その女性は清らかな横顔で、滝のような長い髪をなびかせ、彰を見上げ、完璧な微笑みを浮かべている。
まさに絵に描いたようなお似合いの2人。……ふんっ!
柏木詩織。
彰の初恋の相手であり、10年もの間、彼の心の奥底に秘められ、忘れられなかった女性。
3年前、詩織が留学のために出国した日、彰は空港に一晩中立ち尽くした。
そして翌日、彼は柚と結婚した。
その理由は、いささか荒唐無稽なものだった。
柚はかつて、ある事故で彰の祖父を救ったことがあった。
老人はその恩に報いるため、この縁談を自ら取り持ったのだ。
彰は当時、冷たい顔で彼女に言い放った。「結婚はしてやるが、俺の心にお前の居場所はない」
3年が経った。
2人は結婚の事実を3年間も隠し通してきた。
結婚式もなく、指輪もなく、優しい言葉1つかけられたこともない。
世間は、大統領が結婚していることなど知る由もなかった。
柚は、自分は気にしないと思っていた。
3年の月日があれば、何かしらの感情は育まれるはずだと。
たとえそれが愛でなくとも、家族としての情や、伴侶としての責任、共に歩む上での阿吽の呼吸くらいは生まれるだろうと。
今となっては、すべてが彼女の一方的な思い込みに過ぎなかった。
母は前後して九度も入院したが、彼は一度たりとも見舞いに来なかった。
それなのに、詩織が帰国するやいなや、彼は自ら空港まで迎えに行き、専用通路を貸し切り、バラの花束を抱え、その様子はすべてのメディアでリアルタイムに報道された。
柚はその写真を見つめ、ふと笑みがこぼれた。
自分の愚かさを笑ったのだ。
(もう、終わらせる時が来た)
突然、会場の外が騒がしくなった。
黒いマイバッハが庭に停まる。
車のドアが開き、2つの人影が中に入ってきた。
柚は振り返らなかった。
彰が会場に入ってくると、黒いコートにはまだ外の冷気がまとわりついていた。
彼はまず祭壇に目をやり、軽く頭を下げ、落ち着いた口調で言った。「伯母さん、安らかにお眠りください」
その礼儀作法は完璧だった。
ただ、この「伯母さん」という呼び方が、ナイフのように柚の心に突き刺さった。
自分の義母を、「お母さん」ではなく、よそよそしく「伯母さん」と呼ぶ。
それから、彼は柚に顔を向け、平坦な口調で言った。「道が混んでいて、遅くなった」
(道が混んでいた)
柚は、その言い訳が滑稽でならなかった。
彼女は座布団から立ち上がった。長時間跪いていたせいで両脚は痺れて紫色に変色し、ほとんどまともに立てない。
彼女は彰の目をまっすぐに見据え、問い詰めた。「早く来ようが遅く来ようが、何か違いがあるの?母は九度も入院したけど、 あなたは一度でも見舞いに来た?」
彰は眉をひそめた。「仕事が忙しかった」
「そう?でも、あの大切な女性が帰国する時は、 わざわざ空港まで迎えに行く時間があったのね?」
「詩織は外交使節団の通訳だ。迎えに行くのは仕事の一環だ」彰の声には何の感情もこもっていない。 「柚、くだらないことで騒ぐな」
(くだらないこと、ですって!?)
(ふんっ、笑わせるわ!)
その時、柚は彰の後ろに立つ女性にようやく気づいた。
詩織は白いコートをまとい、その肌は雪のように白く、杏仁のような瞳は水のように穏やかで、その姿はまるで絵画から抜け出してきたかのように美しかった。
彼女は白い百合の花束を抱えていた。その色が、ひどく目に刺さる。
詩織は静かに口を開いた。「藤堂さん、伯母様のことを伺い、大変残念に思っております。 伯母様にお供えください。心よりお悔やみ申し上げます」
彼女はそう言うと、一歩前に進み、白い百合を供え台に置いた。
そして、詩織は柚のそばに歩み寄り、慰めるように抱きしめようとする素振りを見せた。
2人の体が近づいた瞬間、詩織は柚の耳元で、極めて小さな、しかし猛毒を孕んだような声で囁いた。
「柚、知ってる?あなたのお母さんがずっと待っていた移植用の心臓、彰が私にくれたのよ。まさかあなたのお母さん、死ぬまで知らなかったでしょうね。 自分が待ち望んでいた心臓を、自分の娘婿に横取りされたなんて」
柚は全身がこわばり、その瞬間に血が凍りついたかのようだった。
「彼は私に約束してくれたの。私が望むものなら、何だって他の誰にも渡さないって。藤堂柚さん、愛されてない女こそが、本当の泥棒猫なのよ。立場をわきまえて、さっさと彼から離れてくれない?」
彼女はそう言い終えると、柚の肩を軽く叩いた。その姿は優雅で、まるで本当に母を亡くした哀れな人間を慰めているかのようだった。
柚の瞳孔が激しく収縮し、呼吸が荒くなった。
彼女は詩織の無垢で偽善的な顔を見つめ、この3年間抑え込んできたすべての屈辱と絶望が、この瞬間、燃え盛る怒りの炎と化した。
彼女は勢いよく手を振り上げ、詩織の顔を力任せに平手打ちした。
話 2
しかし、彼女の平手が振り下ろされる直前、その手首は大きな手によってがっしりと掴まれた。
まるで万力のような力だった。
藤堂柚が顔を上げると、冷ややかな長谷川彰の瞳と真正面からぶつかった。
「正気か!」彰の声には、逆らうことを許さない威厳が満ちていた。「ここは御霊前だぞ。一体何をするつもりだ!」
柚は目を真っ赤に充血させて彼を睨みつけ、「放して」と声を絞り出した。
「自分が今、何をしようとしたか分かっているのか?」彰は声を低くした。「詩織は善意で弔問に来てくれたんだ。それを殴ろうとするなんて。このことが外に漏れたら、世間はお前をどう見ると思う?」
善意……ね。
柚にとって、その言葉はあまりにも滑稽で、荒唐無稽だった。
彼の目には、柏木詩織は永遠に優しく善良で、忘れられない純真な女性なのだ。そして自分、柚は、ただの理不尽で厄介な存在に過ぎない。
柚の声は震え、一言一言が喉の奥から無理やり絞り出されるようだった。
「聞かせて。どうして……。どうして、母が待ち望んでいた心臓を、詩織に渡したの?」
その言葉が発せられた瞬間、霊堂にいた弔問客たちは皆、息を呑んだ。
彰の眉が、ほとんど気づかれないほどわずかに動いた。
弔問客たちは場の空気が尋常でないことを察し、皆、気を利かせてそっとその場を離れていった。広々とした霊堂には、彼ら数人だけが残された。
「何を言っている?」彰の声は、依然として落ち着き払っていた。「心臓だと?」
柚は彼をじっと見つめ、爪が手のひらの柔らかい肉に深く食い込んだ。
「去年の11月、中央総合病院で。本来、母に適合するはずだった心臓――あなたが自分の権力とコネを使って、それを詩織に回したんでしょう?」
彰は、2秒ほど沈黙した。
彼はその出来事を思い出したようで、口調がいくらか和らいだ。
「あの時、詩織が突然心臓発作を起こして、非常に危険な状態だったんだ。緊急で移植手術が必要だった。そして、その心臓が彼女に最も適合していた……」
「じゃあ、母の状態は危険じゃなかったとでも言うの?」 柚は彼の言葉を遮った。「母はその心臓を八ヶ月も待っていたのよ!医者は、いつ心不全で亡くなってもおかしくないって言っていたのに!」
最後の言葉は、ほとんど叫び声だった。
彰の喉仏が上下に動いた。
彼は涙に濡れた柚の顔を見つめ、心臓が締め付けられるのを感じた。唇を動かし、言った。「……知らなかった」
「君のお母さんが心臓移植を待っていることは知っていた。だが、彼女の状態が……。そこまで深刻だとは本当に知らなかったんだ。 まだ待機リストにいて、時間があるものだとばかり思っていた。 詩織の当時の状況はもっと緊急で、医者は48時間もたないかもしれないと言っていたんだ」
その時、詩織が顔を上げ、その瞳はすぐに涙で潤んだ。
「柚、ごめんなさい。本当にごめんなさい……。伯母様もその心臓を待っていたなんて、知らなかったんです。 もし知っていたら、絶対に――」
「絶対に何?」 柚は鋭く彼女に顔を向けた。その視線は、まるで刃物のように鋭かった。「さっき私にこっそり言ったこと、皆の前でもう一度言ってみる度胸はある?」
詩織の顔色は瞬時に青ざめ、か細い声が震えた。
「藤堂さん、お母様を亡くされて、とてもお辛いお気持ちなのは分かります。でも、そんなふうに私を中傷しないでください……。私は本当に、伯母様を弔問しに来ただけなんです……」
「ごめんなさい、全部私のせいなんです……」
掌に乗るほどの小さな顔に涙の雫を浮かべ、その姿はどこまでも楚々として可憐だった。
彼女の体はふらつき始め、今にも気を失って倒れそうに見える。
「詩織!」彰は素早く反応し、彼女を支えた。
詩織は弱々しく彼の腕に寄りかかり、唇をわずかに動かした。「藤堂さん……。ごめんなさい……。私……。とても苦しい……」
言い終わると、詩織は力を失い、その場に倒れ込んだ。
「詩織!」彰の声に、焦りが滲んだ。
詩織は彼の腕の中でぐったりと寄りかかり、その顔は血の気が失せて真っ白だった。
彰は柚に視線を向けた。その瞳は冷たく、鋭かった。「君は本当に、どうしようもない女だな」
そう言うと、彼は身をかがめて詩織を抱き上げ、霊堂の出口へと向かおうとした。
柚は彼の前に立ち、静かな声で言った。「長谷川彰、私たち、離婚しましょう」
詩織を抱きかかえていた彰の体が、その場で硬直した。
「何だと?」
「あなたは、ずっと彼女を忘れられなかったんでしょう?」 柚の声は、波1つ立てずに静かだった。「あなたたちを自由にしてあげる。もう、自由よ」
「藤堂柚、よく考えろ」彼の声は低く、怒りを押し殺した雷鳴のように響いた。
「よく考えたわ」
彰は数秒間彼女を見つめ、ふと冷笑を浮かべた。「いいだろう。 後悔するなよ。 あの時、君が俺の祖父を助けてくれた。その恩に報いるために、俺は君と結婚したんだ。 今日から、俺たちの間はこれで終わりだ。お互い、貸し借りなしだ」
そう言い放つと、彼は詩織を抱きかかえ、大股で霊堂を後にした。
黒いマイバッハがエンジンをかけ、ゆっくりと屋敷の敷地から出ていく。
門の外で様子をうかがっていた親戚たちは慌てて道を譲り、小声で噂話を始めた。
霊堂には再び静寂が戻った。
柚は、その場に立ち尽くし、車が門の向こうに消えていくのを見つめていた。
誰も知らない。先ほどの、何気ない会話のように見えたやり取りが、3年にわたる結婚生活に終止符を打ったことを。 そして誰も知らない。彼女が彼の妻だったことを――いや、これからは、元妻だ。
彼女は振り返り、母の遺影の前に歩み寄った。母の穏やかな笑顔を見つめ、ついに涙が止めどなく溢れ出した。
「お母さん、ごめんなさい……。親不孝な娘でごめんなさい……。お母さんが待ち望んでいた心臓さえ、守ってあげられなかった……」
彼女は膝から崩れ落ち、冷たい床に額を押し当てて、肩を激しく震わせた。
門の外からため息が聞こえ、誰かが首を振った。
「あの子、本当に可哀想に。お母さんを亡くしたばかりなのに、旦那さんにはあんなに冷たくされて……」
「あの女、どう見ても仮病でしょう……。あんな都合よく倒れるなんて……」
「でも、あの方は柏木家のお嬢様よ。大統領ともあろう方が、あちらを特別扱いするのは当然だわ」 「柚なんて、何者でもない。親もいない孤児じゃない……」
「声が大きいわよ……」
柚は、そんな噂話には耳を貸さなかった。
存分に泣いた後、彼女はゆっくりと顔を上げ、涙を拭った。
首にかけていた翡翠のペンダントが、服の中から滑り落ちた。
彼女はそのペンダントを見つめ、母が亡くなる前に言った言葉を思い出した。
「柚、このペンダントはあなたの本当の両親が残した形見よ。 あなたは私の実の娘じゃない。私が引き取った子なの。 私が死んだら、必ず自分の家族を探すのよ」
(だから、自分は藤堂家の娘ではなかったのだ)
柚はペンダントを強く握りしめた。その瞳の奥で、何かがゆっくりと冷たく凍てついていった。
話 3
母の葬儀を終えた藤堂柚は、自分の住まいに戻った。
そこは、彼女が3年間暮らした場所――郊外の人里離れた場所に建つ1軒家だった。
1軒家とは名ばかりで、実際には長谷川彰が所有する数ある不動産の中でも最も目立たない物件の1つに過ぎない。立地は不便で、周りには何もなかった。
彼女は主寝室のドアを開け、荷造りを始めた。
私物は多くない。数着の着替えを除けば、何も持っていく気はなかった。
3年間暮らしたこの寝室には、彼女自身の痕跡が何1つ感じられなかった。
「奥様、何をなさっているのですか?」ドアの向こうから、 家政婦の宮田さんの驚いた声が聞こえた。
柚は顔を上げずに答えた。「荷造りよ。 ここを出ていくの」
宮田はその場に立ち尽くし、複雑な表情を浮かべた。
彼女はこの屋敷で3年間働いてきたが、彰に会ったことはほとんどない。この3年間、柚がどれほど孤独に長い日々を過ごしてきたかを、彼女は間近で見てきた。
「ですが、旦那様が……」
「すぐに新しい人が私の代わりに来るわ」 柚はスーツケースのファスナーを閉めながら、淡々と言った。
宮田は何かを言おうと口を開いたが、結局何も言えず、黙って部屋を後にした。
柚は3年間暮らした寝室を見渡した。
部屋は単調な白と黒とグレーで統一され、冷たく、まるで彰という男そのものだった。
丸3年。
誰も彼女を訪ねてくることはなかった。唯一そばにいてくれたのは、宮田だけだ。
世間は彼女の存在を知らない。メディアが報じるのは、大統領本人の業績や外交活動ばかり。時折、彼の結婚に関する憶測が流れることもあったが、 そのヒロインが彼女であることは一度もなかった。
その時、階下から突然、尋常ではない物音が聞こえてきた。
柚が部屋を出て階段を下りようとすると、ホールにボディガードたちが2列に整然と並んでいるのが見えた。
彰がその真ん中に立っている。背筋を伸ばし、端正な顔立ちの彼は、人目を引く存在だった。
柚は足を止めた。
彼がここに来るとは、まったく予想していなかった。
この3年間、彼がこの家に戻ってきた回数は、片手で数えられるほどしかない。
スーツケースを引いて階段を下りてくる柚を見て、彰は眉をひそめた。 「どこへ行くつもりだ?」
柚は彼を見ることなく、階段を下り続けた。
彰は数歩で階段を駆け上がり、彼女の前に立ちはだかった。
彼の視線が彼女の持つスーツケースに落ち、その眼差しが険しくなる。「どこへ行くのかと聞いている」
「離婚協議書はもう大統領執務室に届いているはずよ」 柚は静かな声で言った。「署名したら、誰かに私に送らせて。もう会う必要はないわ」
彰は数秒間彼女を見つめ、突然冷笑を浮かべた。
「離婚の話は後だ」彼は反論を許さない口調で命じた。 「今すぐ俺と一緒に柏木詩織に謝りに行くんだ。葬儀での君の態度はあまりにも失礼だった」
柚はついに顔を上げ、彼を見た。
その瞳は、波1つ立たない死んだ水面のように静まり返っていた。
「何ですって?」
「詩織は君に怒鳴られて、心臓発作を起こしかけたんだ。彼女は手術を受けたばかりで、医師から刺激を与えないよう言われている。この件で彼女に非はない。君は彼女に謝罪しなければならない」
柚はスーツケースのハンドルを握る手に、 無意識に力を込めた。
「非がない」――その言葉は、血の滲む傷口に塩を塗り込むようだった。
「彰、詩織に非があるかどうかは、あなた自身が彼女に聞くべきよ。 でも、私は絶対に謝らない。死んでも」
彼女はそう言い放つと、スーツケースを引いて彰のそばを通り過ぎ、前へと進んだ。
「柚!」彰の声が鋭く響いた。「今日、この門を出ていくなら、二度と戻ってくるな!」
柚の足がわずかに止まった。
彼女は振り返らず、ただ静かに答えた。「安心して。最初から戻るつもりなんてないから」
彰は呆然とした。白いワンピースをまとった柚の後ろ姿はか細く、振り返りもしない彼女からは、すべてを諦めたような静けさだけが漂っていた。
「いいだろう、結構だ。そこまで言うなら、時間を無駄にする必要もない」彰は怒りのあまり笑みを浮かべた。「今すぐ離婚協議書に署名しろ。今日から、君はファーストレディではなくなる」 そう言うと、彼は側近に離婚協議書を持ってこさせた。
柚は書類に目を通すことすらなく、直接署名した。
結婚して以来、彰は彼女に無関心だった。世間は彼に妻がいることすら知らず、「ファーストレディ」の存在など、なおさら知る由もなかった。
柚があまりにもあっさりと署名したのを見て、彰の顔色は一瞬で険しくなった。
彼は非常に驚いていた。彼女が離婚を切り出したのは、ただの意地やわがままだと思っていたのだ。まさか本当に署名し、しかも何の条件も提示しないとは。
柚は背筋を伸ばし、脇目も振らずに彼のそばを通り過ぎた。
3年間の愛のない結婚生活は、今や図々しい女に居場所を奪われようとしている。未練など何もない。いっそ、きっぱりと去るまでだ。
「彰、あなたは本当に哀れな人ね。あなたのような人に、本当の愛が手に入ることは永遠にないわ」
その言葉を残し、柚は振り返ることなく去っていった。
その時、数人の大統領府の職員が慌てた様子で駆け込んできた。
「大統領、外に高級車が多数現れ、門を塞いでおります!」
彰はわずかに眉をひそめた。
ここは大統領府の付属施設であり、警備は非常に厳重だ。一般車両がここまで入ってくることはあり得ない。
彰の顔色は険しくなり、怒鳴るように尋ねた。「何者だ?」
職員が答える間もなく、外から1糸乱れぬ足音が聞こえてきた。
1隊の人間が近づいてくるようだ。
柚がドアの方に目をやると――いつの間にか、 黒いスーツを着た男たちが二列に並んで立っていた。
彼らは皆サングラスをかけ、背筋を伸ばし、人を寄せ付けない威圧感を放っている。
その黒服の男たちの真ん中に、1人の若い男が立っていた。
彼は仕立ての良い黒いトレンチコートをまとい、長身で、彫りの深い顔立ちをしていた。その眉間には冷徹な雰囲気が漂い、鷹のように鋭い眼差しと、人を圧倒するほどのオーラを放っている。
しかし、彼の視線が柚に注がれた瞬間、その顔に痛ましさと慈しみの表情が浮かんだ。
「柚、やっと見つけた」
男は彼女を優しく見つめ、何かを言おうとして、唇を震わせた。
柚は呆然とした。「あなたは……?」
彼女は目の前の男に会った覚えはなかった。
だが、なぜか彼が自分を見た瞬間、心臓が跳ねた。
その感覚はとても奇妙だった。
恐怖でも、緊張でもない。
それは……。言葉では言い表せないほどの、不思議な懐かしさだった。
男は口を開いて説明した。「柚、俺は君の兄だ。五十嵐貴臣。迎えに来た」
(兄?)
(自分は夢でも見ているのだろうか?)
(ついに、本当の家族が迎えに来てくれたのだ)