話 2
―― 辰巳恵梨 ――
私の「おめでとう」という簡潔な返信は、礼人にとって理解しがたいものだったらしい。数時間後、彼の友人たちから次々と電話がかかってきた。彼らは私がなぜ礼人の誕生日に現れなかったのか、そしてなぜ彼の結婚をあっさり受け入れたのか、訝しげに尋ねてきた。
「恵梨ちゃん、もしかして礼人さんの真意に気づいたのか?」友人の一人が探るように尋ねた。礼人はきっと、私が彼の本心を知ったとは夢にも思っていないだろう。彼にとって、私はまだ彼を追いかける愚かな少女だ。私の平静な態度は、彼にとって「気を引くための芝居」としか映らないのだ。
友人たちは礼人に、このまま偽装結婚の計画を進めるべきだと勧めた。星野桃花を手に入れるためには、恵梨を完全に諦めさせる必要があると。彼らは礼人が桃花に執着していることを知っていたから、その背中を押したのだ。
その日の午後、私の兄である光平と、もう一人の友人が礼人の家を訪れた。礼人と話をするためだ。しかし、彼らが着いたちょうどその時、礼人の携帯電話が鳴った。相手は星野桃花だった。
礼人は私の家族との会話を中断し、すぐに桃花の電話に出た。彼の顔には焦りの色が浮かんでいる。「どうしたんだ、桃花?」彼は優しい声で尋ねた。桃花は何かを訴えているようだった。礼人はためらうことなく、「すぐに駆けつける!」と言って、私たちが話す間もなく、桃花のもとへと急いで去っていった。
光平たちは呆然と立ち尽くした。彼らは礼人に重要な情報を伝えようとしていたのに、彼は桃花を優先した。礼人の友人は光平に言った。「光平、礼人の気持ちは桃花にあるんだ。恵梨ちゃんのことは、もう…」彼らの言葉は、私と礼人の間に決定的な溝があることを示していた。光平は、礼人に何も伝えられなかったことに打ちひしがれていた。
しかし、私の心は決まっていた。私は数日後にはパリ行きのビザを無事取得した。出国までの残された数日間、私は家で静かに過ごした。誰とも会わず、ただ自分の未来について考えていた。
数日後、兄の誕生日パーティーが開催された。私は出席をためらったが、光平がどうしても来てほしいと頼むので、重い腰を上げた。会場には多くの辰巳家の関係者や共同経営者、友人たちが集まっていた。私は礼人や桃花と顔を合わせるのが嫌で、できるだけ彼らとは距離を置くようにした。
しかし、パーティーが始まって間もなく、その光景は私の目に飛び込んできた。礼人が星野桃花と、そして以前見た子供を連れて、会場に現れたのだ。彼は桃花の腰に手を回し、まるで本物の家族のように振る舞っていた。周囲の人々は彼らの「幸せな家族」について囁き合っていた。「北島さん、奥さんとお子さんも連れてくるなんて、本当に愛妻家ね」「星野さん、本当に綺麗で、北島さんにぴったり」
私はその言葉を、無表情で聞いていた。私の胸には何の感情も湧き上がらなかった。ただ、冷たい事実として、彼らの「偽装結婚」が着々と進んでいることを確認しただけだった。
礼人は私に気づくと、笑顔で近づいてきた。「恵梨、久しぶりだな。今日は来てくれて嬉しいよ」彼の隣で、桃花がにこやかに微笑んでいた。礼人は桃花を私の前に立たせると、言った。「恵梨、紹介するよ。彼女は星野桃花。来月結婚する、俺の妻だ」
私は冷静に答えた。「ご結婚おめでとうございます。桃花さん、初めまして。恵梨と申します」私は桃花に向かって軽く頭を下げた。桃花は私の態度に少し驚いたようだったが、すぐに表情を取り繕った。「恵梨ちゃん、噂はかねがね。礼人からあなたのこと、たくさん聞いてるわ」彼女の言葉には、どこか挑発的な響きがあった。
「礼人さんは、もう私の兄の親友という立場だけではありませんから。大人として、一線を引くのは当然のことです」私は桃花の目を見て、はっきりと告げた。桃花は私の言葉に、一瞬顔色を変えた。
「恵梨ちゃんも、礼人さんのこと、もう諦めた方がいいわよ。私たち、来月結婚するんだから」桃花は笑顔の裏で、私に釘を刺した。「私たちの結婚式にも、ぜひ来てちょうだいね」彼女はわざとらしく、私に結婚式の招待状を手渡した。
私の心は、完全に冷え切っていた。私は招待状を受け取ると、それをバッグの奥にしまい込んだ。この招待状が使われることは、決してない。私がこの街を離れる時、この紙切れはゴミ箱行きになるだろう。そう思いながら、私は静かにその場を後にした。
話 3
―― 辰巳恵梨 ――
私は静かに招待状を受け取った。そして、深く頭を下げた。「はい、分かりました。お二人の幸せを心から願っています」私の言葉は、礼人にも桃花にも、私の心からの決別を伝えるものだった。私は礼人の方を向いた。「礼人さん、これまでの私の行動が、あなたにとって越権行為だったことは深く反省しています。これからは、兄の親友として、適切な距離を保ちます」
その言葉を聞いた周囲の人々は、一斉にざわめき始めた。彼らは私の過去の行動を嘲笑うように囁き合った。「恵梨ちゃん、礼人さんのこと、ずっと追いかけてたもんね」「あの時も、礼人さんのこと、どれだけ好きかみんなにアピールしてたっけ」「いい加減諦めないと、辰巳家の名誉にも傷がつくわよ」
彼らの言葉は、まるで塩を擦り込まれるかのように、私の傷口に深く染み込んだ。私は礼人の方を見たが、彼の表情は相変わらず淡々としていた。私には、彼がまるで別人に見えた。過去の彼なら、こんな言葉を言われたら、きっと何かを言ってくれたはずだ。しかし、今の彼は、私に対して何の感情も抱いていないように見えた。
私は理解した。彼が私に優しくしてくれたのは、ただ光平の妹だからという理由で、私を傷つけたくなかっただけなのだ。そして今、彼は私を完全に切り捨てようとしている。私はその場にいるのが耐えられなくなり、静かにその場を後にした。
家族たちはそれぞれの来客との挨拶に忙しく、私の退席に気づく者はいなかった。礼人は堂々と桃花を「妻」として紹介し、彼女に惜しみない愛情を注いでいた。桃花の髪を優しく撫で、彼女のグラスが空になる前に新しい飲み物を差し出す。その一つ一つの仕草が、彼が桃花をどれほど大切にしているかを物語っていた。周囲の人々は「北島さん、本当に奥様を愛しているわね」「お似合いの夫婦だわ!」と口々に称賛していた。
私はその光景を直視できず、会場の隅にある小さなテーブルに身を寄せた。しかし、桃花は私を見逃さなかった。彼女はふと私の方を見ると、礼人の隣を離れ、まっすぐに私の元へ歩いてきた。
「恵梨ちゃん、もしかして怒ってる?」桃花はにこやかに、しかしどこか挑発的に尋ねた。
私は首を横に振った。「いいえ、全く。もう礼人さんのことは、なんとも思っていませんから」私の声は、私自身でも驚くほど冷徹だった。
桃花は私の言葉に、さらに挑戦的な笑みを浮かべた。「本当に? 信じられないな。だって、あなたは八年間も礼人さんに執着していたんでしょう?」彼女は私の腕を掴み、引き留めようとした。「ねぇ、教えてくれる? あなたは礼人さんのどこがそんなに好きなの? いつから好きなの?」
その時、頭上からギシギシと嫌な音がした。見上げると、会場の天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアが、わずかに揺れていた。私は嫌な予感がしたが、桃花とのやり取りに意識を集中していた。その瞬間、シャンデリアを吊るしていたワイヤーが、金属音を立てて切れた。
礼人はその音に気づき、顔色を変えた。彼は私の隣にいた桃花の方へ、迷わず駆け寄った。私の目には、彼が桃花を抱きしめ、彼女を庇う姿がはっきりと映った。そして、次の瞬間、私を遮るようにシャンデリアが落下してきた。
ガシャーン! という轟音と共に、私は激しい衝撃に襲われた。激痛が全身を貫き、視界が真っ白になる。私は地面に叩きつけられ、全身から血が噴き出した。手足が震え、全身が痙攣する。意識が遠のく中、私の目に映ったのは、桃花を抱きしめ、優しく囁きかける礼人の姿だった。彼は私の方を一度も振り向かなかった。
私は深い闇の中へと落ちていった。
次に目を覚ますと、私は病院のベッドにいた。サイドテーブルには点滴がぶら下がり、消毒液の匂いが鼻を突く。ベッドの傍らには、心配そうな顔をした光平が座っていた。
「恵梨! 目を覚ましたか!」光平は私の手を取り、安堵の表情を見せた。「本当に、本当にごめん。俺が、お前を守れなかった」彼の声は震えていた。
私はか細い声で答えた。「お兄ちゃんのせいじゃない…」私は彼を慰めた。礼人の行動は、彼が桃花をどれだけ深く愛しているかの証だった。彼が私を見捨てたのは、彼の本能的な選択だったのだ。
光平は怒りに震える声で言った。「礼人の奴、お前がシャンデリアの下敷きになった時、桃花を庇って、お前のことを見捨てたんだぞ! こんなひどい奴、俺は許さない!」
私は彼の言葉に、苦笑いを浮かべた。「いいの。もう、彼のことはなんとも思っていないから」私の心は、もはや何の感情も抱かなかった。あの雨の夜に、私の恋は終わったのだ。今回の事故で、私の心は完全に冷え切った。
光平は私の決意を感じ取ったようだった。「分かった。恵梨が何を望むにしても、俺は全力でサポートする」彼の言葉は、私にとって何よりも心強いものだった。
私はかろうじて笑顔を絞り出した。体はまだ痛むが、心は不思議と穏やかだった。事故から十日後、私はパリ行きの航空券を予約した。これが、私の新しい人生の始まりだ。航空券を手にした時、私は初めて、心の底から自由になった気がした。もう、誰かの影に怯える必要はない。誰かの愛を待ち続ける必要もない。私は、私自身のために生きていく。