話 1
私は遺伝性の難病に侵され, 余命数ヶ月を宣告された.
かつて, 愛する夫・光紀の未来を守るため, 私はお金のために彼を捨てたと嘘をついた.
十年後, 成功を収めた彼は復讐のために私を妻にし, 若い愛人を公然と連れ歩いた.
彼は愛人が私を侮辱するのを許し, 母が残した唯一の愛の信物「福の神」さえも彼女に与えた.
「こんな安っぽいもの, 誰も欲しがらないわよ! 」
愛人はそう叫び, 私の目の前で福の神を粉々に砕いた.
私は絶望の中で血を流して倒れたが, 彼は私が芝居をしていると冷たく言い放った.
病の床で, 私は親友のために必死に生きようとしたが, 耳に届いたのは愛人が彼の子を妊娠したという知らせだった.
彼の愛も言葉も, すべてが嘘だったのだ.
私は完全に心を閉ざし, 静かに遺体寄贈の同意書にサインした.
私がこの世を去った後, すべての真実を知った彼が狂気に陥るとは知る由もなかった.
第1章
―― 麻里乃 ――
夫は、私の人生がもうすぐ終わることを知らなかった。彼は、私を傷つけるためならどんなことでもした。私を苦しめることが、彼の生きがいになっているようだった。私の心は、もうとっくに死んでいた。
彼は、会社の新人である菊池百合奈を公然の愛人にした。百合奈は若く、私たちがまだ貧しかった頃の私によく似ていた。光紀は、私に嫉妬させ、苦しめるために百合奈を選んだ。これは私への復讐だった。
光紀と百合奈の関係は、もう半年以上続いていた。社内では公然の秘密で、誰もが知っていることだった。光紀は百合奈に異常なほど執着していた。それまでのどの愛人にも見せなかった顔を百合奈には見せていた。
彼の愛人たちはいつも短命だった。光紀の気まぐれな寵愛はすぐに終わり、彼女たちはあっけなく捨てられた。しかし、百合奈だけは違った。光紀は百合奈を本気で愛していると、誰もが噂し始めた。会社の人々がひそひそ話すのを何度も聞いた。彼が百合奈に注ぐ愛情は、まるで彼が私に抱いていた最初の愛のようだった。その噂は、私の耳にも届いた。
私が百合奈を初めて見たのは、光紀の会社の創立記念パーティーだった。華やかな会場で、光紀の隣に立つ百合奈は、私自身が過去に戻ったかのように見えた。彼女の笑顔は無邪気で、昔の私そのものだった。その時、私は胸に鋭い痛みを覚えた。単なる嫉妬ではない、体の奥からの痛みだった。
それから数週間、私の体は次々とおかしな症状を訴え始めた。朝起きると倦怠感がひどく、頭がぼんやりした。めまいがして、立ち上がることさえ困難な日もあった。突然鼻血が出たり、体が熱くなったりした。私は一人で病院に行った。誰にも知られずに診察を受け、検査を待った。検査結果は、私を絶望の淵に突き落とした。
診断は遺伝性の難病。母と同じ病気だった。医師は私のカルテに目を落としながら、淡々と余命は数ヶ月だと告げた。私はただ、椅子に座り、窓の外の曇り空を見上げた。まるで他人事のように、冷静にその事実を受け止めた。感情が湧き上がらなかった。
死は怖くなかった。恐怖は、すでに私の中に巣食う病の痛みだった。母が経験した、あの激しい痛みを私が味わうことになるのかと思うと、胸が潰れそうだった。その痛みだけが、私の唯一の恐怖だった。
痛みを和らげる治療法はあった。最新の医療技術を使えば、苦痛を軽減できると医師は言った。しかし、それは非常に高額だった。普通の家庭には到底払えないような金額だった。私はため息をついた。
私は光紀に話すしかなかった。一度だけ、彼に頼んでみようと決めた。私は彼の会社に向かった。彼のオフィスフロアに着くと、秘書デスクに座っていたのは、菊池百合奈だった。彼女は私を見るなり、顔をしかめた。
光紀は会議室から出てきた。彼は私をちらりと見たが、すぐに百合奈の方を向いた。私を無視し、百合奈と親密に話していた。私はただ、彼のオフィスの応接室で待ち続けた。まるで、そこにいない存在のように扱われた。光紀は私を見ようとせず、百合奈の肩を抱き、耳元で何か囁いた。百合奈は嬉しそうに笑った。
やがて百合奈が応接室にやってきた。彼女は私の全身を値踏みするように見た後、嘲笑した。
「岩崎社長の奥様ですか? 随分と老けられましたね。こんな醜いおばさんが、あんな素晴らしい社長の奥様だなんて信じられません。」
彼女の声には、私への軽蔑と優越感がにじみ出ていた。百合奈はわざとらしく私に近づき、耳元で囁いた。
「私は岩崎社長の秘書です。社長は私をとても可愛がってくれます。私と社長の関係を、あなたはご存知ですか?」
彼女は私を挑発するように、私の顔を覗き込んだ。私は何も言わなかった。表情一つ変えなかった。百合奈は嘲笑した。
「岩崎社長が言うには、あなたは自分を捨てた女なんですってね。お金のために彼を捨てた。だから彼はあなたを恨んでいる。でも、私は違います。私は社長を心から愛しています。あなたのように、お金で男を選ぶような女じゃありませんから。」
彼女は自分のことを私と全く違う人間だと強調した。若く、美しく、純粋だと。そして私を、お金に執着する醜い女だと決めつけた。
私は近くにあった窓ガラスに映る自分を見た。やつれた顔、こけた頬、生気のない瞳、薄くなった唇。髪はパサつき、肌はくすんでいた。百合奈の言う通り、鏡の中の私は醜かった。私の人生はもうすぐ終わる。この姿の私を、誰も愛したいとは思わないだろう。愛されることなど、もう期待していなかった。
私は自分の外見も、病気で蝕まれた体も、それによって訪れる死も、ただ静かに受け入れた。心が動くことはもうなかった。絶望は、私にとっての安息になりつつあった。
その時、近くを通りかかった男性社員が百合奈のセリフに眉をひそめた。彼は百合奈の言葉が不快だったのか、私に気づくと、少し困った顔をした。
「菊池さん、社長の奥様は昔、本当に美人でしたよ。あなたと社長がつきあっていた頃の星野さんの写真、見たことがありますか? 本当に素敵な人でした。社長は今でも奥様のことを…」
その社員は話しかけられたことに気づくと、慌てて口をつぐんだ。彼は気まずそうに、私と百合奈の顔を交互に見た。百合奈は顔を赤くして、彼を睨みつけた。
「余計なことを言わないでください。社長と奥様の間には、複雑な事情があるんです。あなたが口を挟むべきことではありません。」
社員は「申し訳ありません」とだけ言って、足早に立ち去った。百合奈は私をもう一度睨んだ。その目は、獲物を狙う獣のようだった。
「あなた、社長の気を引こうとしているのでしょう? だとしても、もう遅いですよ。社長は、あなたのことなんて、とっくに忘れているはずです。」
彼女の言葉は、私の心を全く揺さぶらなかった。だが、その社員の言葉は、私の心に奇妙な残響を残した。光紀は、今でも私のことを覚えているのだろうか。彼の復讐は、本当に私への憎しみだけなのだろうか。私は分からなかった。ただ、もうどうでもいいと思った。しかし、その「どうでもいい」という諦めが、後に私をさらに深い絶望へと突き落とすことになるとは、この時の私には想像もできなかった。
話 2
―― 麻里乃 ――
光紀が私に深い愛情を抱いているという噂は、百合奈の耳にも届いていたようだった。彼女は私を睨みつけ、苛立ちを隠さなかった。彼女はそんな噂を信じていなかった。私への優越感を保ちたかったのだろう。
「岩崎社長が本気であなたを愛しているなんて、ありえませんから。彼はあなたを恨んでいるだけです。あなたを苦しめることだけが、彼の喜びなんです。」
百合奈はそう言って、私を嘲笑った。彼女は光紀から与えられた特別な待遇をひけらかし始めた。
「社長は私に、最新のスマートフォンをプレゼントしてくれました。彼が『君の指に似合う』って。それから、海外旅行のチケットも。彼は私の行きたい場所ならどこへでも連れて行ってくれるんです。あなたにはそんなこと、してくれないでしょう?」
彼女は自慢げに話した。私は彼女の言葉を聞き流した。光紀が他の女性に同じようなことをしていたのを、何度も見てきた。贈り物、旅行、甘い言葉。全ては、彼が私への復讐のために使う道具だった。私を傷つけるための、彼なりの方法だった。
光紀は、私に嫉妬させ、苦しめるために愛人を作っていた。それは、これまでのすべての愛人に対してもそうだった。彼らの寵愛は短命に終わり、光紀はすぐに次の女を見つけた。しかし、百合奈は違った。光紀は百合奈に、他の誰にも見せなかった顔を見せていた。光紀と百合奈は、まるで本当に愛し合っているカップルのようだった。
光紀は百合奈の手を握り、優しく微笑んでいた。百合奈も光紀に寄り添い、甘えた声で話していた。彼女の瞳は光紀だけを映していた。その光景は、私の視界に何度も飛び込んできた。私の隣には誰もいなかった。私は一人だった。心に何かが刺さるような感覚も、もうなかった。
私は百合奈に問いかけた。私の声は、驚くほど冷静だった。
「あなたは彼に、私と離婚するように言わないのですか?」
私の言葉に、百合奈は一瞬ひるんだ。彼女の顔が怒りで赤くなった。目を見開いて私を睨みつけた。
「何を言っているんですか! 離婚なんて、そんなこと、私が言えるわけないでしょう! 私はまだ、社長の奥様じゃないんですから!」
百合奈は私に罵声を浴びせた。彼女の言葉は、まるで機関銃のように私に降り注いだ。
「あなたが社長を捨てたから、社長は私と親しくなったんです! あなたが悪いんでしょう! 醜いおばさん! 早く消えてなくなればいいのに! 私と社長の邪魔をしないでください!」
彼女はさらに言葉を続けた。
「社長はあなたを愛していません! 社長が愛しているのは私だけです! あなたなんか、早く彼の前から消えればいいんです! そうすれば、私が社長の隣に立てるのに!」
近くにいた社員が、百合奈の過激な言葉に戸惑っていた。彼らは百合奈を止めようとしたが、百合奈は聞かなかった。彼女は完全に感情的になっていた。
私は百合奈の言葉をただ受け入れた。罵られても、もう何も感じなかった。私の心は、すでに麻痺していた。私が彼を捨てたのは事実だった。私は醜い。早く消えてなくなるべき人間だった。彼女の言葉は、私の心を全く傷つけなかった。感情は、冷たい氷のように固まっていた。
私はもう、光紀に怒ることも、悲しむこともなかった。彼の存在は、私の心から完全に消え去っていた。彼の行動一つ一つが、私にとってどうでもよかった。
光紀は、私にとって何の価値もない人間になっていた。彼の愛情も、彼の憎しみも、私にはもう届かなかった。彼の言葉一つで、私の感情は揺らがなくなった。
私は光紀に徹底的に失望していた。私の心は、彼に対する期待を完全に手放した。もう彼に何も求めなかった。彼の行動は、私にとって意味をなさなかった。
私は自分の置かれた状況を冷静に理解していた。病気で、余命数ヶ月。夫には愛人がいて、私は彼に捨てられた女だと思われている。それでも、私はこの運命を受け入れた。抗う力も、抗う意味もなかった。
私は光紀への感情を完全に手放した。彼の存在は、私の人生から消えた。私は残りの人生を、自分のために生きようと決めた。
私はこれからの人生を、私自身のものとして生きる。死が訪れるその日まで、私は自由に生きる。私はもう、誰のためにも生きない。他人の期待に応えることも、誰かの復讐に付き合うことも、もうしない。だが、そう誓ったそばから、私の体は再び激痛を訴え始めた。まるで、そんな私の決意を嘲笑うかのように。
話 3
―― 麻里乃 ――
私が百合奈の挑発を無視して立ち去ろうとしたその時だった。百合奈は足元にあったコードにつまづいた。彼女はバランスを崩し、大きくよろめいた。
「きゃっ!」
百合奈は悲鳴を上げた。彼女は床に倒れ込み、その瞬間、近くのデスクの角に手を打ち付けた。鋭い音が響き、彼女の手の甲から血がにじみ出た。
その悲鳴を聞きつけた光紀が、会議室から飛び出してきた。彼は百合奈の血まみれの手を見て、顔色を変えた。彼の目は、瞬く間に怒りに燃え上がった。
光紀は会議を中断し、百合奈のもとへ駆け寄った。彼は百合奈を抱き起こし、腕の中に優しく抱きしめた。その姿は、まるで百合奈が彼の唯一の存在であるかのようだった。
「誰がやったんだ! 誰が百合奈を傷つけた!」
光紀の怒鳴り声が、オフィス中に響き渡った。彼の声は恐怖を伴い、周囲の社員たちは皆、縮み上がった。誰もが光紀の恐ろしい形相に怯え、口を開くことができなかった。
私は光紀の目に映る憎しみを真っ直ぐに見た。そして、ためらいなく答えた。
「私がやった。」
私の言葉に、光紀の瞳が凍りついた。百合奈は光紀の腕の中で顔を上げた。
「彼女が勝手に転んだだけだ。自業自得だ。」
私はそう言って、百合奈を冷たく見下ろした。彼女の挑発が招いた結果だった。
百合奈は光紀の腕の中で泣きじゃくった。
「社長…私、あなたのことを愛してしまったから、こんな目に遭うんです。奥様が私を憎んでいるから、こんな…」
彼女は涙を流し、自身が犠牲者であるかのように語った。そして、光紀への揺るぎない愛を訴えた。
「私、社長のこと、本当に愛しています。どんなことがあっても、社長のそばにいたいです…」
百合奈の言葉に、光紀はフッと笑った。彼の笑みは、百合奈への寵愛を明確に示していた。彼は百合奈の髪を優しく撫でた。
「大丈夫だ。君は悪くない。私が守ってやる。」
光紀は百合奈を抱きしめ、額にキスをした。その優しい眼差しは、私に向けられたことのないものだった。私は光紀が百合奈に注ぐ愛情を、確かにこの目で見た。それは、私への復讐だけでは説明できないものだった。
私は光紀に近づき、冷たい声で言った。
「治療費が欲しい。病気になった。お金がない。」
私と光紀の間には、もう夫婦としての絆はなかった。私たちの関係は、結婚という契約でしか繋がっていなかった。光紀は、私を金のために彼を捨てた女だと信じ込み、その憎しみから私と結婚した。
光紀は、私が金のために彼を捨てたとずっと信じていた。だから、彼は私がお金を要求することを憎んでいた。彼は私を軽蔑し、金にがめつい女だと罵った。しかし、私はそんなこと、もう気にならなかった。
過去、私が彼に金を要求するたびに、彼は渋々ながらも私の要求に応じていた。それが、彼の私への復讐の方法だった。私に屈辱を与え、私を支配すること。しかし、今回は違った。
光紀は私を冷めた目で見つめた。そして、初めて私に屈辱的な条件を突きつけた。
「百合奈に謝罪しろ。そうすれば、金をやる。」
光紀の言葉に、私の全身が震えた。謝罪など、できるはずがなかった。私の尊厳を踏みにじる要求だった。私は首を横に振った。
「しない。」
その瞬間、私の体は激しい痛みに襲われた。胃のあたりが締め付けられ、頭が真っ白になった。立っているのがやっとだった。
私は光紀に背を向けた。彼からの金も、彼の言葉も、もういらなかった。私はただ、この場所から立ち去りたかった。
私は知っていた。私が死んだ後、光紀はきっと、私の真実を知るだろう。その時、彼はどんな顔をするだろうか。どんな後悔に苛まれるだろうか。私はそのことを、少しだけ気になった。だが、その時はまだ、自分が彼の前から「死」という形で完全に消えることになるとは、考えてもいなかった。