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「神崎蒼真」男の低く響く声がした。「31歳、ボクシングのコーチをしている」

28歳の星野結衣は、まさか自分が落ちぶれて田舎町に戻り、お見合いをする日が来るとは思いもしなかった。

仲人によれば、相手はよそ者だが条件が良く、両親は他界しており、元気な祖母が一人いるという。

町には3階建ての持ち家があり、隣町でもローンなしでマンションを購入済みで、400万円以上の車も持っているそうだ。

さらに隣町でボクシングジムを経営しており、かなりの収入があるらしい。

周りからは神崎コーチと呼ばれている。

今、その条件の良い神崎コーチが、彼女の目の前に大柄な体をドカッと下ろして座っている。

黒の上下に身を包み、少しワイルドで不良っぽい雰囲気を漂わせている。顔立ちはシャープで、清潔感のある坊主頭にしており、年配の人が好むような端正な顔立ちをしていた。

だが、能面のような無表情を崩さず、隠しきれないほどの冷たく重苦しいオーラを放っている。

無骨でクール、イケメンだが粗野な印象だ。

どう見ても、近寄り難い。

結衣は礼儀として言葉を返した。「星野結衣、28歳です。 翻訳の仕事をしています」

神崎蒼真は目の前にいる透き通るような白い肌の女を見つめた。彼女の目元は微笑んでいるものの、その瞳の奥には冷淡さとよそよそしさが隠されている。

清楚でいて、どこか冷ややかな雰囲気を纏っていた。

見つめるうち、彼女の目尻にある小さなほくろに視線が留まり、彼の瞳が微かに揺らいだ……

自己紹介の後、会話が途切れた。

初めてのお見合いで、結衣はこうした場に慣れていなかった。おまけに蒼真が氷のように冷たい態度をとるため、自分から話題を振る気にもなれなかった。

そのため、彼女はグラスを両手で包み込み、気まずさを紛らわすように水を飲んだ。

グラスの水を飲み干しても、蒼真は椅子に寄りかかったまま一言も発さず、ナマケモノのように無表情で彼女を見つめ続けている。

結衣はいたたまれなくなり、冷静を装って口を開いた。

「神崎さん、とても条件が良いと伺っていますが、どうしてお見合いなど?」

「選り好みだ」

結衣はからかうように言った。「てっきり、ご家族に無理やりやらされているのかと」

「ああ」 蒼真は低い声で答えた。「ばあちゃんに、お見合いに行かないなら死んでも死にきれんと言われたんだ」

結衣が、随分と包み隠さず話す人だと思っていると、彼の気のない口調が再び耳に届いた。

「お見合いなんて、本気になるな。 運が良ければ本物の愛が手に入るし、運が悪くても楽しめりゃいい。ダメなら経験値になるだけだ」

ーーめちゃくちゃな理屈だ。

結衣は唇を引きつらせた。「随分とお見合いに慣れていらっしゃるんですね!」

「まあな」 蒼真は肩をすくめた。「百人ほど会っただけだ」

ーーこの男、あまりにも軽薄で、信用できない。

「神崎さん、私たちは性格が合わないと思います。 私はもっと真面目で落ち着いた人が好きなので」

同じ町に住んでいれば今後顔を合わせることもあるだろうと考え、結衣はできるだけ彼の面子を保つようにした。

「実を言うと、私は仕事を失ったうえに詐欺に遭い、借金まで抱えて親のすねをかじるために町へ戻ってきたんです。 私はあなたには到底釣り合いません。早く素敵なお相手が見つかることを祈っています」

蒼真は伏し目がちにしながら、その瞳の奥に深い何かを宿していた。

しばらくして、彼は短く答えた。「わかった」

結衣は彼が上着を手に取り、大股で立ち去るのを見ていたが、無意識にその後ろ姿を目で追い、ふと息を呑んだ。

背が高く、肩幅が広くて腰回りは引き締まっており、筋肉のラインが綺麗で、いかにも力が強そうだ。

田舎町はおろか、大都会にいてもこれほどのスタイルと顔立ちの男はそういないだろう。

惜しいことに、性格に難がある。

結局、彼女は「軽薄な男は好きじゃない」という一言で仲人を適当にあしらい、このお見合いを終わらせた。

一月の風は骨身に染みるほど冷たく、町の通りの両側にある木々にはイルミネーションが飾られていた。

お正月の雰囲気が漂ってきて、どこか懐かしくもあり、同時に見知らぬ感覚も覚えた。

よく考えてみれば、大学へ進学し、働き始めてから、彼女はもう8年も実家に帰っていなかった。

今年は本当に厄年だった。

上半期はコネ入社の社員に確実視されていた副部長の席を奪われ、下半期には同僚の罠にはまって仕事でミスをし、クビになった。

そして年末には、一本の電話がきっかけで詐欺に遭い、手元の貯金をすべて失ってしまったのだ。

都会で何年も必死に働いてきたというのに、結局すべて水の泡になった。

最終的に、彼女は実家に戻ることを決めた。

一つは家賃を払うお金がないこと。もう一つは、長年片思いをしていた男が先週婚約したからだ。

町に戻った2日目、彼女は叔母の松本京子に無理やりお見合いをさせられた。

それが先ほどの気まずいお見合いというわけだ。

家に着くなり、廊下から叔父の松本健一と京子の言い争う声が聞こえてきた。

声はそれほど大きくなかったが、防音設備などない古いアパートではやけにはっきりと響いた。

「結衣が帰ってきたばかりだっていうのに、お見合いに行かせるなんて!あの神崎は確かに条件はいいが、三十過ぎて身を固めてないなんて、絶対どこかおかしいに決まってる!」

「あんたの可愛い姪っ子が、突然仕事を辞めて帰ってきたってどういうことよ? しばらくここを出ていくつもりはないって!うちでタダ飯を食うつもり?私はニートを養う気なんてないからね」

「結衣は大学に入ってから、うちに一円も頼ってないじゃないか! 今回だって、都会から服や手土産を買ってきてくれただろう。叔母なんだから、もう少し寛大になれないのか?」

「健一、あの子を施設から引き取るのを許してあげた私が、寛大じゃないって言うの? 小さい頃からうちでタダで生活してたんだから、私たちに恩返しするのは当然でしょ! だいたい、もうすぐ30歳にもなる売れ残りが、何一つ成し遂げてないうえに結婚もしてないのに、よくいけしゃあしゃあと帰ってこられたわね? ご近所さんに後ろ指を指されるとは思わないわけ?こっちが恥ずかしくてたまらないわ」

「それに、うちは部屋が二つしかないのよ。 今年の正月は美月夫婦が帰ってくるのを忘れないで。結衣が自分で部屋を借りるか、お見合いを成功させて相手の家に転がり込むかしかないわ。ここにあの子の居場所なんてないんだからね……」

ドアの外で、結衣はとっくに何も感じなくなっていた。

何年経っても、彼女は歓迎されないよそ者のままだった。

気持ちを整理して家に入ると、京子は相変わらず不機嫌な顔をしており、高圧的な口調で彼女に説教を始めた。

「仲人さんの話だと、神崎さんを気に入らなかったらしいじゃない? 自分の立場が分かってるの?

「えり好みしてる場合じゃないでしょ!女は28過ぎたら誰にも見向きされないんだからね!」「都会に数年住んだからって、いい女にでもなったつもり? まだ若くて綺麗なうちに、さっさと結婚しなさい。叔母さんだってあんたのためを思って言ってるのよ。 こうしましょ、仲人さんにもう何人か探してもらうから、明日も引き続きお見合いに行きなさい!」

「京子、いい加減にしろ!うちの結衣はこんなに優秀なんだぞ……」

「叔父さん」 自分を原因としたこの言い争いを収めるため、結衣は心にもない笑みを浮かべて言葉を遮った。「お見合いが嫌なわけじゃないの。いい縁があれば、それも悪くないと思ってるし」

部屋に戻ってドアを閉めると、引きつった作り笑いが消え、徐々に眉間が険しくなっていった。

動悸がゆっくりと全身を襲い、額にじっとりと冷や汗がにじむ。

彼女はベッドのそばに行き、枕の下に隠していた薬を取り出して飲み込むと、疲れ果てたようにベッドへ倒れ込んだ。

だいぶ落ち着きを取り戻してから、スマホを取り出してLINEを開くと、友達追加のリクエストが来ていることに気づいた。

アイコンはひと筋の黒い煙で、不気味でどこかゾッとさせた。

結衣はリクエストを承認し、すぐにメッセージを送った。

「どなたですか?」

30秒後、相手から返信が来た。

「軽薄な神崎コーチだ」

2

星野結衣は数秒呆然とし、ようやくそれが神崎蒼真だと気づいた。

彼女は手短に尋ねた。「何の用?」

向こうからは即座に返信が来た。「今日の見合い、メシは食わずに飲み物だけで、合計1000円かかった。縁がなかったってことで、割り勘にしよう」

たった1000円で割り勘って……。

本当に、呆れてものも言えない。

この蒼真という男、軽薄なだけならまだしも、まさかここまでドケチだったとは。

結衣は迷わず彼に500円の送金をした。

もう彼とは関わりたくなかった。

しかし蒼真はそれを受け取らず、またメッセージを返してきた。

「現金で頼む。明日の午前中、いつもの場所で待ってる」

結衣は思わず笑いそうになった。

ーーこの人、頭がおかしいんじゃないの?

勢いよく文字を打ち込んだ後、やはり良くないと思い直し、削除して書き直した。

「午前中は用事があるから、午後にして」

しばらくして、ようやく彼から冷たい一文字が送られてきた。

「ああ」

翌日の朝早く、結衣はまた仲人に連れられて見合いに行った。

午前中だけで、彼女は3人の男と見合いをした。

1人は町の正規雇用の数学教師。

もう1人は隣町の産婦人科医。

そしてもう1人は、事業をしている子持ちのバツイチ男。

どいつもこいつも、脂ぎった小太りのおじさんか、勘違いの自己過剰男ばかりだ。

まるで畑のニラのように、会うたびに質が落ちていくな。

結衣がこれで全部終わったと思った時、仲人は彼女を引っ張り、また次の見合い場所へと急いだ。

最後の見合い相手は、桐谷健太という25歳の年下の青年だった。

会うなりとても口がうまく、彼女の色白さや顔立ちをひたすら褒めちぎった。

だが、彼女は適当な理由をつけてやんわりと断った。

今の彼女は生活するだけでも精一杯で、恋愛にかまけている余裕などないのだ。

手っ取り早く済ませた後、健太はとても寛大で、にこにこしながら彼女に言った。

「お義姉さん、恋人になれなくても、友達になるのはありでしょ!」

結衣もあっさりと応じた。「いいわよ」

「そうだ、俺とダチでこれから隣町に用事があるんだけど、ちょうどお義姉さんの家の近くを通るんだ。車に乗ってきなよ、ついでに送っていくから!」

「それなら、ありがとう」 凍えるような寒さの中、タダで車に乗せてもらえるのは彼女にとってもありがたかった。

健太と一緒に外に出ると、道路脇に黒いSUVが停まっているのが見えた。

長身の男が車にもたれてうつむき加減でタバコを吸っており、全身を冷たい黒でまとったその姿は近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。

立ち上る煙の中で顔立ちが和らぎ、少しばかりの厳しさが薄れ、清らかな端正さが増していた。

足音を聞いて、男はわずかにまぶたを上げ、立ち上る煙越しに鋭い視線を射抜くように向けてきた。

その視線とぶつかった瞬間、結衣はハッとした。

なんと、あのドケチの蒼真だったのだ。

「蒼真さん、こちら星野結衣さん。俺の見合い相手」

健太は蒼真の前に歩み寄り、その肩に腕を回した。「どうせ道草だし、この綺麗なお義姉さんを家まで送ってあげようよ!」

蒼真は答えず、漫然とした視線を結衣に向けた。

今日の彼女も相変わらずすっぴんだったが、肌は透き通るように白く、まるで白磁のように目を引いた。

ベージュのコートを着て、髪をハーフアップにまとめ、額に数本のおくれ毛を垂らした姿は、上品でしとやかだった。

しかし、その美しい瞳の奥には相変わらず透き通った硬い氷が潜んでおり、それが彼女全体の雰囲気に、人の心にまで染み入るような冷たさを与えていた。

「よぉ」 蒼真はゆっくりと煙の輪を吐き出し、眉尻を上げた。「奇遇だな」

「奇遇ね」

「午前中は用事があるって、つまり……」蒼真は語尾を伸ばした。「また見合いに来てたってわけか?」

彼に良い印象を抱いていない結衣は、淡々と答えた。「仕方ないでしょ。いい年だし、親から急かされてるから」

蒼真はタバコをくわえたまま、笑っているのかいないのか分からない表情で、彼女をじっと見つめた。

「蒼真さん、二人は知り合いなの?」健太が好奇心の匂いを嗅ぎつけた。

「ああ」 蒼真はタバコをもみ消し、両手をポケットに突っ込んで、悪びれずに言った。「俺の見合い相手だ。昨日のな」

「早く言ってよ!」健太は野次馬根性丸出しで、ポンと手を打った。「なんだ、義姉さんってわけか!」

ーー類は友を呼ぶ、とはよく言ったものだ。

さすがは蒼真の仲間、どいつもこいつも適当すぎる。

結衣はとっくに車に乗せてもらう気をなくしており、蒼真を見て言った。「神崎コーチ、車は遠慮しておくわ。用事があるから、お先に」

続いて、彼女はポケットからしわくちゃの現金を500円分取り出し、見せつけるようにボンネットに押し付けた。「あなたの分の割り勘、現金で返すわ」

数歩歩いたところで結衣はまた引き返し、さらに現金500円を取り出して置くと、冷ややかな笑みを浮かべて蒼真のほうに口角を上げた。

「私のおごりにしてあげる」

蒼真はボンネットの上の1000円を一瞥し、それから遠ざかる結衣の後ろ姿に目をやった。

その冷厳な口元に、気づかないほどの微かな弧が描かれた。

「蒼真さん、何かあるでしょ!」健太は面白がるように彼の腕をつついた。「あんたの性格じゃ、死んでも見合いなんて行かないはずだ!白状しろよ、あの星野結衣って一体何者なんだ?」

蒼真はボンネットの上の1000円をつまみ上げてまじまじと見つめ、その瞳の奥を深く沈ませた。「お前には分からん」

健太には確かに分からなかった。「いや蒼真さん、それにしてもあんた、普段は気前がいいのに!どうしてたった数百円を女に返させたりできるんだ? 一体何を考えてるんだ?」

蒼真は顔を上げ、再び結衣の去った方向へ視線を滑らせた。

「デートだ」

……

見合いに失敗すれば、間違いなく松本京子からの非難を浴びることになる。

だから、結衣は自ら家を出ることを決意した。

彼女がその考えを京子に伝えると、京子の顔はようやく晴れやかになった。

「結衣!引っ越すなら隣町にしなさい、この町の人たちは口うるさいからね!もしあんたが町内に住んだら、近所の人たちが私や叔父さんの陰口を叩くのは目に見えてるわ!」

結衣は彼女と言い争う気になれず、それを承諾した。

翌日、彼女はロングダウンコートを羽織って、隣町へ部屋探しに出発した。

今日は町の朝市の日で、バス停には買い物客でごった返していた。

この有様では、都会の朝の満員電車よりも乗るのが大変そうだ。

村民たちはスーパーの袋に正月用の食材や酒を詰め込み、手ぶらでその間に挟まった結衣はひどく場違いだった。

そこへバスがやって来た。ドアが開くやいなや、静かに並んでいたはずの列が一気に前へ押し寄せる。結衣も反射的に流れに身を任せ、前へ突っ込んだ。

ステップに足を踏み入れた瞬間、「そこ、もう満員よ!無理よ!」と後ろのおばさんに鋭く声をかけられ、結衣はドアから弾き出された。

そのまま足元が空を切り、重心を崩して、仰け反るように後ろへ倒れ込んだ。

咄嗟に声を上げそうになった瞬間、腰に回された腕がその悲鳴を飲み込んだ。

体を受け止められ、背中が硬くたくましい胸板にぴったりと張り付いた。

温かい息が耳元に吹きかかった。「気をつけろよ、星野さん」

結衣はビクッとして、慌てて体勢を立て直して振り返り、蒼真の深遠な瞳と視線がぶつかった。

今日の彼も相変わらず全身黒ずくめで、昨日とまったく同じ服を着ていた。

彼女は一歩後ろへ下がった。「ありがとう」

蒼真は答えた。「どういたしまして」

結衣はそれ以上彼を相手にせず、走り去るバスに目を向け。

しかし、蒼真の視線がすでに血の滲む彼女の指先に落ちていることには気づかなかった。

彼は車にもたれながらタバコを取り出し、長いまつ毛を伏せ、手で風を覆いながらライターで火をつけた。「隣町へ?」

結衣は彼を見ずに答えた。「ええ」

「乗れよ」蒼真は悠然と煙の輪を吐き出し、煙越しに彼女をじっと見つめた。「俺もついでだ」

「結構よ、次のバスを待つから」

蒼真は特に表情を変えることなく、タバコを挟んだ指で灰を振り落とした。「星野さん、それなら失礼させてもらうぞ」

結衣が反応する間もなく、蒼真は大股で彼女に歩み寄り、鮮やかな動作で彼女を横抱きにした。

鼻先にほのかなシャンプーの香りが漂い、彼女の体はすっぽりと蒼真の腕の中に収まった。

結衣はもがきながら、蒼真のくっきりとした顎の線を睨みつけた。「降ろして」

蒼真は答えず、そのまま彼女を助手席に押し込んだ。

車内はとても清潔で、ダッシュボードには可愛らしいドラえもんの飾りが置かれていた。

蒼真のタフなイメージとはひどく不釣り合いだった。

「神崎コーチ」 結衣は少し腹を立て、声を潜めた。「何をするつもり?」

蒼真はドアをロックすると、体を横に向けて彼女を見つめ、気楽で無造作な口調で言った。「見合いはダメだったが、友達になるのはどうだ?」

「ドアを開けて、降ろして」

蒼真は聞こえないふりをして、彼女の手首を握って軽く引っ張った。「手を怪我してるぞ、友達」

結衣は遅れて気づき、自分の右手の人差し指から血が出ているのを発見した。

きっとさっきバスに乗り込もうとした時、老人の籠の竹のトゲで引っかけたのに違いない。

手を引き抜こうとしたが、蒼真の驚くべき腕力が彼女をしっかりと縛り付けていた。

「動くな、薬を塗る」

彼女は仕方なく妥協し、蒼真が車内から消毒液、綿棒、絆創膏を取り出して傷口を手当てしてくれるのを見ていた。

蒼真は身を乗り出してうつむき、手つきはぎこちないが慎重だった。

手を彼にそっと包まれ、二人の手のひらの温度が次第に溶け合い、車内に気まずくも甘い空気が立ち込めた。

結衣は思わず、彼のその整いすぎた顔を見つめた。

果てしなく魅惑的だ。

真面目な時は、案外悪くないように見える。

「じろじろ見るな」蒼真はふいに目を上げ、彼女の視線を絡め取った。「俺はケチだからな、見つめ返すぞ」

3

星野結衣は気まずそうに瞬きをし、すっと視線を逸らした。

ーーもういい。

骨の髄まで染み込んだその軽薄さ、悪くないなんて思う方がどうかしている。

薬を塗り終えると、車が走り出した。

「町で用事か?」神崎蒼真がハンドルを握りながら尋ねた。

「ええ」

「何用だ?」

「部屋探し」

蒼真の瞳に一瞬だけ驚きがよぎり、その後、落ち着いた様子で探りを入れてきた。

「これからは龍平町に腰を落ち着けるつもりか?」

結衣は適当に返した。「まあね」

手元にお金はないし、体調も万全ではない。今はとりあえず実家に身を寄せるしかない。

年が明けたら町で仕事を見つけ、少しお金を貯めてから先のことを考えるつもりだ。

二、三言葉を交わした後、車内はまた静かになった。

結衣は少し疲れていたので、目を閉じて休んだ。

目を覚ますと、すでに目的地に到着しており、体には黒いジャケットが掛けられていた。

あのケチな男にしては、なかなか気が利く。

運転席はもぬけの殻だった。結衣が辺りを見回すと、フロントガラス越しに蒼真の姿を捉えた。

彼は車の外で電話をしており、その長身で均整の取れた体格は、黒のセーター越しにも筋肉の陰影がうっすらと浮かび上がり、言葉にしがたい男らしい魅力を漂わせていた。

その時、蒼真がちょうど顔を向け、彼女と目が合った。

本来冷ややかだった彼の目元は、彼女の視線に気づいた瞬間、その鋭さが消え、少しばかり人を食ったような不良っぽさを帯びた。 彼は眉をひょいと上げ、唇を動かした。「起きたか?」

ガラス越しでも、結衣にはその口の動きが読み取れた。

結衣は車を降り、ジャケットを彼に差し出した。「ありがとう」

「友達」 蒼真はジャケットを腕にかけ、わざとらしく強調した。「また他人行儀だな」

結衣はこめかみを押さえ、話題を変えた。「私、どれくらい寝てた?」

最近、薬を長く飲み続けているせいか、やたらと眠気に襲われる。

「40分ほどだ」

「今日は迷惑をかけたわね」結衣はふと何かを思い出し、少し間を置いて尋ねた。「神崎コーチ、ガソリン代は割り勘にする?損はさせられないから」

「俺の狙いはそこじゃない」 「割り勘なんて口実だ。本当は星野さんと『友達』になりたいだけさ」 蒼真は一歩前に出て、少し身をかがめて彼女を見つめ、にやりと笑った。

「それに、損して得取れって言うだろ。俺は損するのが嫌いじゃないんだ」

至近距離で見つめ合うと、蒼真の熱を帯びた魔力のような視線に、結衣はなぜか侵略的で危険な匂いを感じ取った。

正直なところ、この男は本当に女の扱いを分かっている。

何度も恋愛を重ねていなければ、こんなに手慣れたアプローチは絶対にできないはずだ。

結衣は彼に冷ややかな笑みを返し、くるりと背を向けて用事を済ませに向かった。

午前中がいっぱいに過ぎ、何軒か物件を見て回ったが、どれもしっくりこない上に予算オーバーだった。

町で1LDKを借りるなら、家賃は安くても三万五千円台からだ。敷金・礼金を含めた初期費用は、すぐに十数万飛んでいく。

一文無しの彼女は、もともとクレジットカードに頼って生活している状態だ。

2万ぐらいの安アパートを月払いで探しているだけなのに、仲介は冷たく突き放した。「そんなうまい話はありません。この町でワンルーム一つ借りるだけでも、安くて四万はしますよ」

午後、結衣がそろそろ実家に帰ろうとした時、仲介業者から電話がかかってきた。

『センチュリー広場の近くで、家具付きの1LDKが急遽空いたんです。大家さんが明日にでも海外へ渡航するため、今日中に契約したいらしくて……家賃は2万、しかも月払いでいいそうです』

完全に彼女の予算に収まっている。

まさに棚からぼた餅だ。

一足遅れて他の人に取られてはたまらないと、彼女はすぐに契約を交わしに行った。

部屋の件が片付いた途端、またスマホが鳴った。電話に出ると、ある翻訳会社からの面接の誘いだった。

昨晩、求人サイトから履歴書を送ったばかりなのに、もう今日連絡が来たのだ。ちょうど面接場所もセンチュリー広場のすぐ近くにあった。

面接は非常にスムーズに進んだ。社長はこの地元の女性で、真っ赤なリップに巻き髪が似合う、情熱的でさっぱりとした、成熟した美しい人だった。

彼女が東都外国語大学の出身で、有名な大手翻訳会社での勤務経験があると聞くと、二つ返事で採用を決めてくれ、年明けから出社するようにと言った。

ただ、町の給料は東都に比べて半分以下だった。

面接を終え、結衣がエレベーターで一階に降りた途端、背後から興奮した甲高い声が響いた。

「義姉さん!」

結衣は条件反射で振り返った。「健太くん?」

「義姉さん、町に何しに来たの?」 桐谷健太は慌てて駆け寄ってくると、へらへらと笑いながら尋ねた。「蒼真さんに会いに来たんだろ?」

口を開けばこれだ。

このお調子者には本当に呆れる。

「変な呼び方しないで。私と彼は何の関係もないんだから」

「わかった、わかったって」 健太は右から左へ聞き流した。「せっかく来たんだから、義姉さん、中に入って休んでいきなよ!」

結衣はここで初めて、英語教室の隣がボクシングジムであることに気づいた。

入り口には目を引く立派な看板が掲げられている。

――疾風ボクシングジム。

神崎蒼真の縄張りじゃないか!

気味が悪いほど、おかしな偶然だ。

不思議に思っているうちに、健太は彼女の腕を引き、無理やりジムの中へと連れ込んだ。

一階では多くの生徒がレッスンを受けており、保護者たちが休憩スペースに座って待っていた。

健太と彼女が揉み合っているのを見て、皆が野次馬根性丸出しの視線を向けてくる。

「義姉さん、みんな見てるよ!」健太は小声で彼女に囁いた。「自分で歩く?それとも俺がこのまま引っ張ってこっか?」

「……」結衣は露骨に嫌そうな顔をしたが、なぜか魔が差したように、健太の後について二階へ上がってしまった。

まあいい。

蒼真に会ったら、この口の減らない健太が勝手に「義姉さん」と呼ぶ件について、きっちり文句を言ってやろう。

二階は大人向けのクラスだった。結衣が軽く見回してみたが、蒼真の姿はどこにもなかった。

「義姉さん」 健太が彼女のそばに寄ってきた。「蒼真さんは全体クラスは持たないんだ。マンツーマンの個人レッスンだけさ」

結衣は冷たく言った。「興味ないわ」

健太は彼女が聞きたがっているかどうかなどお構いなしに、勝手にまくしたてた。

「義姉さん、蒼真さんはマジでスゲェんだぜ!ボクシングや格闘技、柔道にサンボまで極めてる上に、元特殊部隊上がりだからな。腕っぷしはハンパねぇ!あの人についていけば、この町で義姉さんに手を出そうなんて奴は誰もいなくなるよ!」

元特殊部隊?

軍隊上がりでも、あんなに軽薄な男がいるのか。

結衣は興味がなく、相槌を打つ気にもなれず、健太について二階の左奥の部屋まで来た。

健太はノックもせず、ドアノブをひねって中に入った。

「蒼真さん、義姉さんが来たよ!」

健太は血が騒いでいるのか、目にもとまらぬ速さで彼女を部屋の中に押し込んだ。

そして、ドアを閉めるなり脱兎のごとく逃げ出した。

空気がピタリと止まった。

結衣は思わず息を呑み、目を少し見開いて呆然と立ち尽くした。

目の前にいる蒼真は全身から熱気を発しており、白いタオルを手にして汗を拭いている。どうやら激しいトレーニングを終えたばかりのようだ。

彼は黒いボクシングパンツを穿いているが、上半身は一糸まとわぬ姿だった。汗の雫が、彫りの深い顔立ちから滴り落ち、喉仏を伝って隆起した筋肉の曲線へと流れ、最後はズボンの腰回りへと消えていく。そのむき出しの男らしさに、彼女の鼓動がトクンと跳ねた。

思わず呼吸を忘れてしまうほどの、圧倒的な肉体美だ。

「友達」 蒼真は彼女を見て少し驚いたようだったが、すぐに首を傾げ、リラックスした様子で彼女を見下ろした。「半日会わなかっただけで、もう俺に会いたくなったのか?」

結衣は早鐘を打つ胸を落ち着かせ、彼の腹筋から視線を逸らした。「あなた、自己愛性パーソナリティ障害じゃないの?」

「じゃあ、ここへ何しに来たんだ?」

「あなたの弟分の健太のおかげよ」

「へえ?」 蒼真はタオルを置き、一歩、また一歩と彼女に近づいてきた。その瞳にはねっとりとした光が宿っている。「チッ、まさか俺をストーキングしてるんじゃないだろうな?」

結衣は彼にじりじりとドアまで追い詰められ、二人の距離が一瞬にして縮まった。

重厚な男の吐息が上から降り注ぐ。すぐ目の前にある蒼真の顔には、抑えきれないほどの奔放さが浮かんでいた。

むせ返るようなフェロモンに包まれ、結衣は荒くなる呼吸を必死に抑えながら、無意識に彼を突き飛ばそうと胸に手を伸ばした。「どいて」

その肌に触れた瞬間、彼女は彼が服を着ていないことをはっきりと自覚した。

手のひらに伝わるその生々しい感触と熱い鼓動に、彼女は気まずさと同時に強烈な羞恥心を覚えた。

すかさず、蒼真はさらに身を乗り出して顔を近づけてきた。その表情は妖しげだったが、声色ははっきりとしていた。

「友達、俺の胸に触るのか?」

ーーやっぱり、頭がおかしい。

結衣は体を強張らせ、身動きが取れなかった。少しでも顔を上げれば、自分の唇が彼の顎に触れてしまいそうだった。胸の奥で心臓が激しく打ち鳴らされている。「バカじゃないの。私は痴漢じゃないわよ」

次の瞬間、蒼真は彼女の手を掴み、自分の胸板へと強引に押し当てた。

「痴漢したっていいじゃないか。 ほら、俺を襲ってみろよ」

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発情コーチの、純情な剥き出し。

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