話 1
「何をしている」
冷たい声が、鼓膜を突き刺した。
松本理実は、びくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返る。書斎のドアの前に、夫の岡本正樹が立っていた。寸分の狂いもなく仕立てられたスーツを纏い、その表情は能面のように固い。
「あ、あなた……。おかえりなさい」
声が震える。理実は、慌てて手に持っていた埃取りを背中に隠した。心臓が早鐘のように鳴り響き、指先から急速に血の気が引いていく。
ほんの数分前まで、彼女はこの静かな書斎で、いつものように掃除をしていた。夫の膨大な蔵書が並ぶ本棚を丁寧に拭き、重厚なマホガニーのデスクを磨いていた。完璧な主婦。それが、この二年間の彼女の全てだった。
その時だった。デスクを拭いていた布巾が、正樹のノートパソコンのマウスに偶然触れた。スリープ状態だった画面が、幽かな光を放って起動する。
何気なく視線を向けた理実は、その画面の中央に表示された一つのフォルダ名に釘付けになった。
「復讐と代替」
嫌な予感が、背筋を冷たい汗となって伝う。理実は、ゆっくりと布巾を置き、震える手でマウスを握った。ダブルクリックする。パスワードを要求する小さなウィンドウが、ポップアップした。
四桁の数字。
理実は、無意識に正樹の誕生日を入力した。エラー。次に、二人の結婚記念日。それも違う。
唇を噛み締めた理実の脳裏に、いつも正樹が財布に忍ばせている古い写真が浮かんだ。写真の中の、自分によく似た女性。藤田理歌音。その写真の裏に走り書きされた日付。
理実は、呪われたようにその日付を打ち込んだ。
カチリと軽い音を立てて、フォルダが開いた。中にはファイルが一つだけ。
「藤田理歌音の裏切りに対する懲罰計画」
息を呑み、ファイルを開く。そこに綴られていたのは、地獄の計画書だった。
「彼女とよく似た容姿の愚かで従順な女を見つけ出し、結婚する」
「俺の所有物として、徹底的に支配する」
「彼女が最も欲しがっていたものを、その女に与えることで、理歌音に絶望を味あわせる」
理実の瞳孔が、激しく収縮した。視界が滲む。スクロールしていく指が、自分の名前を見つけた。詳細な身元調査報告書。その隣には、理歌音の写真が並べられていた。自分と七分も似ている、その顔。
胃が痙攣を起こす。理実は、口元を強く押さえ、こみ上げてくる吐き気を必死に堪えた。正樹がいつも自分に白いワンピースを着せたがった理由。彼の視線が、時折自分を通り越して遠いどこかを見ていた理由。
全てが繋がった。
絶望が、冷たい水のように心を満たしていく。涙が、視界を歪ませる。
その時、玄関の電子ロックが解除される音が響いた。
理実は、全身を硬直させ、パニックに陥った。震える手でマウスを掴む。だが、焦りのあまり、マウスは手から滑り落ち、大理石の床に硬い音を立てて転がった。
慌ててそれを拾い上げ、フォルダを閉じる。ウィンドウを閉じる。
時間は、現在へと戻る。
正樹は書斎の入り口に立ち、じっと理実を見つめていた。鋭い視線が、彼女の顔と、まだ微かに光を放つパソコンの画面とを何度か往復する。そして、ゆっくりと近づいた。一歩、また一歩。
「……もう一度聞く。お前は、何をしていた」
低い声が、理実の頭上で響いた。
「掃除をしていただけよ」
理実は、かろうじてそう答えた。声は掠れていた。
「……だから、掃除よ。それだけ」
彼女は唇を噛みしめて付け加えた。
正樹は眉一つ動かさず、理実の蒼白な顔と震える手を見下ろした。彼の鋭い視線が、まだ微かに光を放っているパソコンの画面へと移る。
「そうか」
短い返事。それだけだった。彼は、理実の横を通り過ぎ、デスクの前に立つ。そして、まるで汚れたものでも払うかのように、理実が触れたマウスをハンカチで拭った。
その無言の拒絶が、理実の胸を抉る。
「夕食の準備があるから」
理実は、逃げるように書斎を出ようとした。これ以上、この空間にいることは耐えられなかった。
「待て」
背後から、再び冷たい声がかけられる。
理実は足を止めた。振り返ることができない。
「今夜は、白いワンピースを着ろ」
命令だった。いつもの命令。
だが、その言葉の意味は、もう以前とは全く違って聞こえた。それは、松本理実に向けられた言葉ではない。彼女を通して、別の誰かに向けられた執着の言葉。
「……わかったわ」
理実は、唇から血が滲むほど強く噛み締め、そう答えるのが精一杯だった。
話 2
あの夜、理実がどうやって正樹の質疑を乗り切ったのか、記憶は曖昧だった。ただ、言われるがままに白いワンピースを着て、作り笑顔で夕食の席につき、機械のように料理を口に運んだ。
翌朝、正樹がいつも通り会社へ向かった後、理実は一人、冷たいリビングのソファに座り込んでいた。腹部の奥が、鈍く痛む。昨夜からの精神的な重圧が、身体を蝕んでいるようだった。
痛みを無視しようとしたが、それは断続的に続き、やがて無視できないほどの強い下腹部痛に変わった。
理実は、重い身体を引きずるようにして立ち上がり、コートを羽織ると、一人でマンションを出た。タクシーを拾う気力もなく、最寄りの駅から電車に乗り、総合病院へと向かった。
婦人科の待合室は、幸せそうな空気に満ちていた。夫に付き添われ、お腹を愛おしそうに撫でる妊婦たち。その光景が、理実の心を鋭く刺した。
自分の名前が呼ばれ、診察室に入る。年配の女性医師は、理実の顔色の悪さに気づき、すぐに内診台へと促した。
「最近、何か大きなストレスを感じるようなことはありましたか?」
超音波検査を終えた医師が、厳しい表情で尋ねた。
理実は、昨夜見たあの計画書のことを思い出し、唇を固く結んだ。
「松本さん。残念ながら、切迫流産の兆候が見られます。非常に危険な状態です」
医師の言葉は、雷鳴のように理実の頭に響いた。
「赤ちゃんが、お腹の中で苦しがっているサインです。絶対安静にしてください。仕事は?」
「……専業主婦です」
「ご主人は? ご主人の協力が必要ですよ」
協力。その言葉が、理実の胸に空虚に響いた。
処方箋を握りしめ、ふらふらと診察室を出る。廊下の突き当たりの窓辺に立ち、外を行き交う車をぼんやりと眺めた。
どうしようもない孤独感と不安が、津波のように押し寄せる。この子の父親は、自分を愛してすらいない。それどころか、自分を憎むべき女の代用品としか見ていない。
それでも。もしも、ほんの少しでも——父親としての情が彼にあるのなら。
理実は、震える手でスマートフォンを取り出し、正樹の番号をタップした。
『大阪に出張中』だと、彼は今朝言っていた。
長いコールの後、電話が繋がった。
「もしもし」
聞こえてきたのは、ひどく不機嫌で、苛立ちを隠そうともしない声だった。
「……わたし」
「何の用だ。今、会議中だと言ったはずだが」
冷たい声が、理実の最後の希望を打ち砕こうとする。
「ごめんなさい。でも、大切な話が……」
「手短にしろ」
理実は、深く息を吸った。涙が、こぼれ落ちそうになるのを必死で堪える。
「あの、大阪でのお仕事、順調?」
「ああ。だから、くだらないことで電話してくるな」
「そう……。あのね、実は……」
理実が子供のことを切り出そうとした、まさにその瞬間だった。
電話の向こうから、はっきりと聞こえたのだ。
『正樹、まだぁ? 早くこっちに来てよ』
甘ったるい嬌声。
それは、藤田理歌音の声だった。
理実の喉が凍りついた。言葉が音にならない。全身の血液が、足元から急速に冷えていく感覚。
正樹が慌てたように何かを言ったが、もう理実の耳には届かなかった。
彼は、大阪にはいなかった。理歌音と一緒にいたのだ。
ブツッと無慈悲な音を立てて、電話は一方的に切られた。
スマートフォンの画面に表示された、通話終了の文字。それが、理実の二年間を死刑宣告する判決文のように見えた。
理実は、ゆっくりとスマートフォンを下ろした。
窓の外の景色が、歪んで見える。
一筋、また一筋と、涙が頬を伝って流れ落ちた。だが、彼女はもう嗚咽しなかった。ただ、静かに涙を流すだけだった。
やがて、その涙も止まった。
理実は、手の甲で乱暴に頬を拭う。その瞳から、先ほどまでの僅かな期待や悲しみは消え失せ、氷のように冷たい底なしの静寂だけが宿っていた。
話 3
マンションに戻った理実は、薬を飲むとすぐに眠りに落ちた。
どれくらい時間が経ったのか。
玄関のドアが、重々しい音を立てて開く気配で、理実は意識を覚醒させた。
深夜。部屋はしんと静まり返っている。
理実は、無意識に掛け布団を強く握りしめた。
寝室のドアが、乱暴に開け放たれる。そこに立っていたのは、よろめく足取りの正樹だった。彼の全身から、強いアルコールの匂いが立ち上る。
そして、そのアルコールに混じって、理実の鼻を突く香りがあった。
昼間、電話越しに聞こえてきたのは、あの女性の香水の香りだったのだろうか?
吐き気が、こみ上げてくる。理実は、痛む身体を無理やり起こした。
「あなた……。大阪出張じゃ、なかったの?」
声が震える。
正樹は、ネクタイを緩めながら、理実を睨みつけた。その瞳は、酔いのせいか、あるいは別の感情のせいか、濁った光をたたえている。彼は何も答えず、大股でベッドに近づいてきた。
そして、理実の上に覆いかぶさるように、両腕を彼女の身体の両脇についた。彼の影が、理実を完全に飲み込む。
顔に吹きかかる酒気に、理実は思わず顔を背けた。
その仕草が、正樹の癇に障ったらしい。彼は、理実の顎を乱暴に掴み、無理やり自分の方を向かせた。
「やめて……」
理実の身体が強張る。
「気分が悪いの」
か細い声で訴える。腹部の鈍痛が、再び主張し始めていた。
「はっ」
正樹は鼻で笑った。
「またその手か。病気のふりをして、俺の気を引くつもりか」
その言葉に、理実の心は完全に凍てついた。
彼は、理実の抵抗をものともせず、その身体をベッドに押し倒した。
「やめて! 本当にお腹が……!」
理実は、恐怖に目を見開き、彼の硬い胸板を必死で押し返そうとする。だが、男の力は圧倒的だった。正樹は片手で理実の両手首を掴むと、頭上で枕に縫い付けた。
「お腹が痛いの! お願いだから、やめて!」
悲鳴に近い叫び。
しかし、正樹の動きは止まらない。彼は、理実のシルクのパジャマのボタンを、引き千切るように乱暴に開けた。
ビリという、布が裂ける音が静かな寝室に響き渡る。
その瞬間、理実の腹部に、突き刺すような鋭い痛みが走った。生理的な涙が、目尻からこぼれ落ちる。
正樹の唇が、まるで罰を与えるかのように、理実の首筋に押し付けられた。
理実は、強く下唇を噛んだ。口の中に、鉄錆の味が広がる。
朦朧とする意識の中、正樹が低く何かを呟くのが聞こえた。
「りかね……」
その三文字が、氷の刃となって、理実の心臓を貫いた。
ああ、やはり。
私は、この人のものではない。
彼の中にいるのは私ではない。
ぷつりと、理実の中で何かが切れた。
あれほど激しかった抵抗が、嘘のように止まる。彼女の身体は、まるで魂の抜け殻のように、ベッドの上で硬直した。
腹部の痛みが、頂点に達する。何か大切なものが、体内から引き剥がされていくような、絶望的な感覚。
視界が、急速に暗転していく。
最後に聞こえたのは、自分のものではないような、微かな悲鳴だった。
意識が完全に途切れる寸前、身動きしなくなった理実の異変に、ようやく正樹が気づいたようだった。彼の動きが止まった。
だが、もう遅すぎた。