2

あの夜、理実がどうやって正樹の質疑を乗り切ったのか、記憶は曖昧だった。ただ、言われるがままに白いワンピースを着て、作り笑顔で夕食の席につき、機械のように料理を口に運んだ。

翌朝、正樹がいつも通り会社へ向かった後、理実は一人、冷たいリビングのソファに座り込んでいた。腹部の奥が、鈍く痛む。昨夜からの精神的な重圧が、身体を蝕んでいるようだった。

痛みを無視しようとしたが、それは断続的に続き、やがて無視できないほどの強い下腹部痛に変わった。

理実は、重い身体を引きずるようにして立ち上がり、コートを羽織ると、一人でマンションを出た。タクシーを拾う気力もなく、最寄りの駅から電車に乗り、総合病院へと向かった。

婦人科の待合室は、幸せそうな空気に満ちていた。夫に付き添われ、お腹を愛おしそうに撫でる妊婦たち。その光景が、理実の心を鋭く刺した。

自分の名前が呼ばれ、診察室に入る。年配の女性医師は、理実の顔色の悪さに気づき、すぐに内診台へと促した。

「最近、何か大きなストレスを感じるようなことはありましたか?」

超音波検査を終えた医師が、厳しい表情で尋ねた。

理実は、昨夜見たあの計画書のことを思い出し、唇を固く結んだ。

「松本さん。残念ながら、切迫流産の兆候が見られます。非常に危険な状態です」

医師の言葉は、雷鳴のように理実の頭に響いた。

「赤ちゃんが、お腹の中で苦しがっているサインです。絶対安静にしてください。仕事は?」

「……専業主婦です」

「ご主人は? ご主人の協力が必要ですよ」

協力。その言葉が、理実の胸に空虚に響いた。

処方箋を握りしめ、ふらふらと診察室を出る。廊下の突き当たりの窓辺に立ち、外を行き交う車をぼんやりと眺めた。

どうしようもない孤独感と不安が、津波のように押し寄せる。この子の父親は、自分を愛してすらいない。それどころか、自分を憎むべき女の代用品としか見ていない。

それでも。もしも、ほんの少しでも——父親としての情が彼にあるのなら。

理実は、震える手でスマートフォンを取り出し、正樹の番号をタップした。

『大阪に出張中』だと、彼は今朝言っていた。

長いコールの後、電話が繋がった。

「もしもし」

聞こえてきたのは、ひどく不機嫌で、苛立ちを隠そうともしない声だった。

「……わたし」

「何の用だ。今、会議中だと言ったはずだが」

冷たい声が、理実の最後の希望を打ち砕こうとする。

「ごめんなさい。でも、大切な話が……」

「手短にしろ」

理実は、深く息を吸った。涙が、こぼれ落ちそうになるのを必死で堪える。

「あの、大阪でのお仕事、順調?」

「ああ。だから、くだらないことで電話してくるな」

「そう……。あのね、実は……」

理実が子供のことを切り出そうとした、まさにその瞬間だった。

電話の向こうから、はっきりと聞こえたのだ。

『正樹、まだぁ? 早くこっちに来てよ』

甘ったるい嬌声。

それは、藤田理歌音の声だった。

理実の喉が凍りついた。言葉が音にならない。全身の血液が、足元から急速に冷えていく感覚。

正樹が慌てたように何かを言ったが、もう理実の耳には届かなかった。

彼は、大阪にはいなかった。理歌音と一緒にいたのだ。

ブツッと無慈悲な音を立てて、電話は一方的に切られた。

スマートフォンの画面に表示された、通話終了の文字。それが、理実の二年間を死刑宣告する判決文のように見えた。

理実は、ゆっくりとスマートフォンを下ろした。

窓の外の景色が、歪んで見える。

一筋、また一筋と、涙が頬を伝って流れ落ちた。だが、彼女はもう嗚咽しなかった。ただ、静かに涙を流すだけだった。

やがて、その涙も止まった。

理実は、手の甲で乱暴に頬を拭う。その瞳から、先ほどまでの僅かな期待や悲しみは消え失せ、氷のように冷たい底なしの静寂だけが宿っていた。

3

マンションに戻った理実は、薬を飲むとすぐに眠りに落ちた。

どれくらい時間が経ったのか。

玄関のドアが、重々しい音を立てて開く気配で、理実は意識を覚醒させた。

深夜。部屋はしんと静まり返っている。

理実は、無意識に掛け布団を強く握りしめた。

寝室のドアが、乱暴に開け放たれる。そこに立っていたのは、よろめく足取りの正樹だった。彼の全身から、強いアルコールの匂いが立ち上る。

そして、そのアルコールに混じって、理実の鼻を突く香りがあった。

昼間、電話越しに聞こえてきたのは、あの女性の香水の香りだったのだろうか?

吐き気が、こみ上げてくる。理実は、痛む身体を無理やり起こした。

「あなた……。大阪出張じゃ、なかったの?」

声が震える。

正樹は、ネクタイを緩めながら、理実を睨みつけた。その瞳は、酔いのせいか、あるいは別の感情のせいか、濁った光をたたえている。彼は何も答えず、大股でベッドに近づいてきた。

そして、理実の上に覆いかぶさるように、両腕を彼女の身体の両脇についた。彼の影が、理実を完全に飲み込む。

顔に吹きかかる酒気に、理実は思わず顔を背けた。

その仕草が、正樹の癇に障ったらしい。彼は、理実の顎を乱暴に掴み、無理やり自分の方を向かせた。

「やめて……」

理実の身体が強張る。

「気分が悪いの」

か細い声で訴える。腹部の鈍痛が、再び主張し始めていた。

「はっ」

正樹は鼻で笑った。

「またその手か。病気のふりをして、俺の気を引くつもりか」

その言葉に、理実の心は完全に凍てついた。

彼は、理実の抵抗をものともせず、その身体をベッドに押し倒した。

「やめて! 本当にお腹が……!」

理実は、恐怖に目を見開き、彼の硬い胸板を必死で押し返そうとする。だが、男の力は圧倒的だった。正樹は片手で理実の両手首を掴むと、頭上で枕に縫い付けた。

「お腹が痛いの! お願いだから、やめて!」

悲鳴に近い叫び。

しかし、正樹の動きは止まらない。彼は、理実のシルクのパジャマのボタンを、引き千切るように乱暴に開けた。

ビリという、布が裂ける音が静かな寝室に響き渡る。

その瞬間、理実の腹部に、突き刺すような鋭い痛みが走った。生理的な涙が、目尻からこぼれ落ちる。

正樹の唇が、まるで罰を与えるかのように、理実の首筋に押し付けられた。

理実は、強く下唇を噛んだ。口の中に、鉄錆の味が広がる。

朦朧とする意識の中、正樹が低く何かを呟くのが聞こえた。

「りかね……」

その三文字が、氷の刃となって、理実の心臓を貫いた。

ああ、やはり。

私は、この人のものではない。

彼の中にいるのは私ではない。

ぷつりと、理実の中で何かが切れた。

あれほど激しかった抵抗が、嘘のように止まる。彼女の身体は、まるで魂の抜け殻のように、ベッドの上で硬直した。

腹部の痛みが、頂点に達する。何か大切なものが、体内から引き剥がされていくような、絶望的な感覚。

視界が、急速に暗転していく。

最後に聞こえたのは、自分のものではないような、微かな悲鳴だった。

意識が完全に途切れる寸前、身動きしなくなった理実の異変に、ようやく正樹が気づいたようだった。彼の動きが止まった。

だが、もう遅すぎた。

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身代わりの妻は天才デザイナーとして覚醒する

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